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短編集65(過去作品)

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 ほとんどが常連で、誰も話をすることもなく、黙々と本を読んだり新聞を読んだりしているので、無意識の顔見知りのような奇妙な関係だった。
 皆指定席が決まっているので、いつも窓際のテーブルに座って、視線は表か新聞に目を落とす程度だったこともあって、彼女の存在に気付くことはなかった。
 最初に声を掛けてきたのは彼女だった。
「ひょっとして米田さんではありませんか?」
 ビックリして顔を上げると、そこには訪問した時に見せてくれる彼女の笑顔が飛び込んできた。あまりにも自然だったので、そこが喫茶店であることをしばし忘れるほどで、自分が仕事で訪問した時の笑顔が反射的によみがえっていた。
「ああ、桜井さんじゃないですか」
 彼女の名前は桜井美咲。会社では首からネームプレートをぶら下げているので、フルネームで名前まで分かっていた。
「いつもこの店に?」
「私は土曜日だけですね」
「私は不定期ですね、気まぐれなものですから」
 そう言いながら苦笑していた。
 気まぐれだという彼女の言葉、謙遜しているのだと思い、最初は信じられなかった。だが、付き合っていくうちに、次第にその言葉が真実味を帯びてきた。ある意味、彼女は最初に自分の性格を相手に分かってもらいたいタイプなのだろう。誤解を受けたままだと、話をしていく上で、自分が辛くなっていくのが分かっているからだ。彼女にも臆病なところがあるようだ。
 もっともそれは米田も同じだった。最初に自分のことを話してしまわないと気がすまない性格で、似ているだけに彼女の気持ちもよく分かる。
 コーヒーの香りが似合う女性のイメージが、その時に焼きついた。トーストや目玉焼きの香りを打ち消すように感じるのは、彼女に甘い香りを感じたからかも知れない。
 正面で恥じらいの笑みを浮かべる美咲の姿を見ての一目惚れだった。
 お互いに意識していた。
 営業で行った時に無意識の視線を美咲は感じていたのである。
「米田さんの視線は結構感じていましたよ。もちろん嫌な視線じゃありませんでした」
 嫌ではないとう言葉で、相手との距離が一気に狭まったような気がした。息を感じることができるほどの距離にである。
 自分の胸の鼓動を感じる。鼓動を感じているうちに、音が大きくなってくる。それが二つに別れて聞こえてくると、もう一つが美咲のものであるという感覚が生まれる。こんな感覚は今まで初めてだった。
 自分の胸の鼓動を感じることは今までに何度もあった。入学試験の始まる前、就職試験の面接の前。すべてが人生を左右する「勝負」の瞬間だった。
 ひるむことなく立ち向かってきた米田の人生、鼓動を感じる時が「勝負の時」だとずっと自覚してきた。
 だが、美咲との間での胸の鼓動に関しては少し違っていた。「勝負」という感覚とは程遠かった。
 前を絶えず向いていて、ひるまないようにしようと思うのは同じではあったが、
――この時を逃さず――
 というほど、切羽詰ったようなことはない。
 コーヒーの香りの魔力という本を読んだことがある。コーヒーに含まれるカフェインは気持ちを落ち着かせる効果があるという。彼女の中から発散される香りとコーヒーの香りが混ざり合って、余計にコーヒーの香りが引き立つことで、さらなる冷静さが二人の間に芽生えたようだ。
 一緒にいて、会話が弾んでいるが、その時に話した内容を、後になってあまり覚えていないことが多い。
 小説を書いている時とイメージが似ている。
 自分の世界を作り上げ、そこですべてが展開されている。それこそ夢のような時間ではないか。そういう意味では後になって覚えていないというのも頷ける。一緒にいる時に、自分の中で、
――夢のようだ――
 と自己暗示に掛けているのかも知れない。
 小説を書いている時も、書いているうちに視線と次の話が頭に浮かんでくる。人と話をする時はこうも行かず。すぐに話題も途切れてしまうことが多い。学生時代は同じ考え方の人としか話すこともなかったので、スムーズな会話の中で、自然に話題が膨らんでいったが、社会人になるとそうも行かない。意見の違う人との会話も余儀なくされる。
――相手に合わさなければいけない――
 という思いがどうしても強く、自分の意見が疎かになってしまう。
 口下手な方だと思われているようだが、それはそれでいいと思っていた。
 しかし、それは微妙に違っていた。相手に合わせすぎるところがあるのだ。相手がよく話す人であれば聞き上手になって、相手があまり自分から話題提供する人でなければ自分の方から話題を提供するタイプである。それに気付かせてくれたのが、美咲だったのだ。
 美咲は自分から話題も提供するが、相手が何かを言いたいと思えばキチンとわきまえていて、しっかりと聞き上手になってくれる。
 その時の彼女の視線には好奇の輝きがあり、美咲の胸の鼓動を最初に感じたのが、好奇の輝きを感じた時でもあった。
 彼女の好奇の視線を感じた時、
――話をしなければ――
 と意気込んでしまう。今まであれば粋以後目場意気込むほど、話題は出てこないものだが、美咲と一緒にいる時だけが違っていた。
 勝手に話題が次から次へと出てくるのである。まるで小説を書こうと原稿用紙の前に座った時のようにである。
 考えてみれば、大学時代、サークルに入ってから最初の頃は、原稿用紙に向っているとなかなか書けない時期が続いた。何か無言のプレッシャーのようなものを感じて、時間が経つほど焦りが深く、次第に額から汗が滲むようにまでなっていた。
 それがある時をきっかけに書けるようになったのだ。
 最初に感じたのは、
――話ができるんだから、書くことだってできるはずだ――
 当たり前のことを改めて考えただけだったが、かなり気が楽になった。
 そして次には、書いているうちに妄想を抱くようになったことである。小説を書いている自分が違う自分になったかのように、いろいろな想像が頭に浮かぶ。その想像も妄想というべきもので、普段の自分ではとても想像できないようなことをである。
 想像と妄想の違いはそこにあるのではないだろうか。潜在意識の中で見る想像と、淫らであったり、危険な想像というのは、自分の中にある理性が邪魔をして、
――考えないようにしなければいけないと思っていることを頭に描いてしまうこと――
 それが妄想ではないだろうか。
 一般的に妄想というのは、非日常的な淫らな想像のことを言うのであって、あまりいい意味に見られることはない。頭の中にあるだけで、それを自分の趣味として小説にするのは別に罪ではないが、許せない自分が本来の自分で、小説の幅を広げたいと思っている開放的なもう一人の自分は妄想を肯定するだろう。
――どちらが前向きなんだろう――
 と考えるようになった。
 前向きといっても、小説世界にだけである。したがって、美咲に出会うまでは、妄想というのはいいことではないと思っていた。狭い世界でだけの自分、つまり、もう一人の自分にだけ許された特権である。
 美咲と出会って、再度もう一人の自分の存在を思い出した。小説を書いている時はいいのだが、意識している女性と一緒にいる時に、もう一人の自分の存在を感じるのはあまりいい気分ではない。
作品名:短編集65(過去作品) 作家名:森本晃次