短編集65(過去作品)
彼の名前は、斉藤さんという。名前は俊夫というのだが、年上だという意識があって、普段から
「斉藤さん」
としか呼んでいない。最初にその呼び方で呼べば、後は簡単に変えられるものではない。特に相手が男の人であれば、なおさらのことである。
悩みは昭子にもたくさんある。他愛もないことから、
――人に話すと、明らかに気を悪くしてしまうだろう――
というほどのことまである。それほど深刻なことだと思っていないが、それは自分だけがそう感じるだけかも知れないと思うと、怖くて口から出てこなくなってしまう。
彼の大学は昭子の高校の近くにある。大学キャンパスというのは、高校の敷地と違って、オープンに誰でも入ることができる。制服を着ていても問題ない。きっと、来年受験を目指していていて、その下見に来たとしか思わないだろう。
昭子は何度も脚を運んだ。
最初こそ、
――自分のいる場所ではない――
と思っていたが、見ていると、いろいろな人がいる。広いキャンパス内で、カップルで歩いている人たちもいれば、一人で黙々と歩いている人もいる。一人で黙々と歩いている人でさえ、何か目標を持って歩いているように見えるのも、キャンパスという場所の魔力なのだろう。
高校一年生の昭子は、まだまだ中学を卒業したばかりだという意識が強い。キャンパスに実際に入ることができるまでに、少なくとも三年近くも費やさなければならない。きっとその三年間というのは、人生の中でも、かなり大きなウエートを占めた三年間になるに違いない。
キャンパスにすっかり馴染んでいると、まるで自分が本当に大人になったような気がしてきた。その時に感じたのが十歳になった時の感覚だった。
あの頃は何も分からないはずだったのに、漠然としたものではない何かがあった。今はキャンパスに立っている自分が大人の人に混じっても違和感がないことからハッキリとした比較対象があるにも関わらず、どこか漠然としている。何となく釈然としない気持ちに襲われていた。
人の気持ちが分かるようになってきたと思っていたのは、自惚れだったのだろうか?
彼だけではなく、彼の友達とも話をするようになってくると、大学生が実に自由に人生を生きていることに驚かされた。楽しそうな姿を見ていると、
「私も早く大学生になりたい」
と思うのだが、その前に受験という壁が立ち塞がっている。皆が皆、その壁を乗り越えてきているのだが、自分にできるかが不安であった。
水泳で泳げるようになった時のことを思い出したりもする。あれは荒療治ではあったが、一種のショック療法である。昭子の中には、
――今はそうでなくとも、その時になれば、自分の力を発揮できるんだ――
と、楽天的な考えを持っている自分もいたりする。
しかし、たいがいは楽天的なところなど、なかなか持っていくことができないものである。よほどモチベーションを上げなければ難しいだろう。そんなモチベーションまで自分を持ってくるのは、昭子にできるかどうか、疑問でもあった。
プールではどうだったんだろう?
あの時のことはほとんど覚えていない。とにかく怖くて、このまま殺されるのではないかと思ったほどだった。
その時の男の子たちは、そんな恐怖におののく昭子を尻目に、悪びれた様子はそれほどなかった。
周りの人もそれほど彼らを叱責するような態度を取っていない。それが癪に触って、その時の孤独感たるや、どう表現していいか言葉が見つからない。
水の中で目を開けたような気がした。このまま死んでしまうと思ったら、目を開けることの恐ろしさが和らいだのだ。それよりも、このまま死んでしまうのであれば、一目くらい水の中で目を開けてみたいと思った。今にも死にそうな状況で、よくそんなことを思いついたものだと他の人は言うだろうが、それが本当なのだから仕方がない。
何といっても、一番驚いているのは昭子であるが、それから泳げるようになったのだから、まわりの人はさらにビックリしたことだろう。単純に、
「逆療法だ」
という言葉で片付けられるだろうが、実際の気持ちの中でそこまでハッキリと感じているかどうか、疑問である。
受験勉強は思っていたよりも苦痛だった。昭子にとって一番足りないものが露呈した結果になった。それまでは感じなかったが、そのことが受験が終わってからも自分の中でトラウマとして残ってしまった。
「私って、本当に集中力がないんだわ」
勉強しようと思って机に座っても、すぐに何か他のことがしたくてたまらなくなる。
最初は、一時間座っていれば、すぐに何かをしたくなる程度だったのだが、その間隔が少しずつ短くなっていき、三十分を切る頃には、席を立つだけでは我慢できなくなっていた。
思わずテレビをつけてしまう。番組を見ているわけではないのだが、ついているだけで安心している自分がいる。テレビだけではなく、今度は音楽もかけなければ落ち着かない。音楽であれば、流しながら勉強もできると思い、音楽を聴きながら勉強に勤しんだ。
今度は思ったより捗ってくる。自分で思っているよりも問題がスラスラと解けてくるものである。
「これでいいんだわ」
と感じ、次第に集中力がなくなってくる自分に、感覚が麻痺してしまっていた。
しかし、今度はもう一つの問題が生まれてきた。これも昭子の中でトラウマと言っていいかも知れない。しかもこのことはずっと以前から感じていたのだが、都合の悪いことは蓋をするという性格が昭子にはある。もっとも、それも、この問題が引き金になっているようなものであった。
昭子は、自分の好きなことは必死になってするが、嫌いなものは、極端に嫌って、何もしない癖があった。
好きなことを必死にやるというよりも、いかにして好きなことを、さらに楽しくやるかということに神経を集中させる方であった。ポジティブといえばそれまでだが、逃げの精神が自分の中に宿っているのだった。
受験勉強も同じだったが、幸いにも、昭子の好きな科目に集中することで、結果としては、合格に近づくことができた。専門的な知識が偏った知識であっても構わないのが大学の中の学部というものである。
大学に入学するまでは、どうしても嫌いなことに集中できない自分に悩んだりもしたが、大学に入学すると、そんなことは忘れてしまっていた。本当はいけないのだろうが、別に問題ないのがキャンパス生活、謳歌すればいいことだった。
受験生の頃に集中できなかったことだけは、大学に入っても気になるところであったが、何かをしながらであれば集中できることが分かっただけでもよかった。苦しんだ受験生時代、苦しんだだけのことはあったというものだ。
大学に入学すると、彼は三年生になっていた。
高校生と大学生の頃もかなり差があったように思ったが、一年生と三年生というのも、想像以上に差が感じられる。大学というところ、本当に、自分が感じているよりも、大きなところだと痛感していた。
作品名:短編集65(過去作品) 作家名:森本晃次