『イザベラ・ポリーニの肖像』 改・補稿版《後編》
10.イザベラ・ポリーニの帰還
イザベラがポリーニの館を出てから四年後、ニューヨークへ渡ってから三年後。
ニューヨーク美術館々長のフォークから驚きの発表があった。
「『イザベラ・ポリーニの肖像』はニューヨーク市民ばかりでなく、全アメリカ国民から愛され、美術界に多大な貢献をも残してくれました、ですが、かねてよりフィレンツェ美術館より再三にわたって譲渡の申し入れがありました。 優れた美術品にはふさわしい土地があるものです、アメリカの誇る現代美術がアメリカでこそ輝くのと同様、『イザベラ・ポリーニの肖像』はフィレンツェでこそ最も輝くでしょう、イザベラを失うのは寂しいことではありますが、彼女を深く愛するがゆえにフィレンツェへお返しすることを決めました」
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「お見事な発表でしたね」
ニューヨーク市立美術館の館長室で、ジョーンズはフォークと向き合っていた。
「いや、実を言うと、あの発表はマンシーニ氏に台本を書いて頂いたのですよ」
フォークは『あの人形』そっくりの笑顔を浮かべて言った。
「なるほど、マンシーニ氏なら適任ですね、ですが別件ではちょっとお願いし辛そうだ」
「確かに……ですが、全て私の本音ですよ、彼女はフィレンツェでより輝くだろうと言うのもね、デ・クーニングやポロックの作品がアメリカを離れると決まった時は私もしこたま飲んだものです、イザベラと離れがたい気持ちは強いですが、フィレンツェの思いもわかる……それに最初からそのお約束でしたからな」
「イザベラはニューヨーク市に貢献してくれましたでしょう?」
「充分に……まあ、金額を口にするのは野暮になりますから言いませんが」
「では、お約束通り……」
「フィレンツェ美術館に一億二千万ユーロでお譲りします」
「ありがとうございます、これで私の肩の荷も降りました」
「あなたとウィリアムズ氏への報酬もお約束通りで?」
「もちろんそれで構いません、もう退役した身ですし、好きなことをやって行けるだけの資金があれば良いのです」
「では、全てはお約束通りに……金のことを別にしても『幻の名画』を三年間所蔵できたことは幸せでした、あの絵を世に出し、しかるべきところへ納めるお手伝いが出来たこともね……ところで、この後時間はおありですかな?」
「書類にサインを頂きにあがっただけですので」
「では、閉館後にもう一度ここに来ていただけますかな? ご一緒に食事などいかがで?」
「実は家内も同行しているのですが……」
「ではぜひ奥様もご一緒にどうぞ、私も家内を呼び出しましょう……奥様孝行でいらっしゃいますな」
「実は今回の計画、ヒントは家内にもらったようなものでして……実は昨日は『例の橋』へ行ってまいりました」
「ああ……なるほど……別段何と言うこともない橋ですが、あの作品がお好きな方にとっては聖地ですからな……この美術館も聖地になりましたよ、イザベラがフィレンツェに発った後も額縁だけ掲げておきますかな、彼女がここにいたことに名残を惜しんで」
そう言いながらフォークは書類にペンを走らせ、ジョーンズに握手を求めた……。
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フィレンツェ美術館に飾られた『イザベラ・ポリーニの肖像』を前にしたロベルト・コンティーニは、全身から力が抜けて行くような感覚に襲われてふらついてしまい、スタッフが慌てて運び込んだ椅子に体を預けた。
名館長と謳われ、傾きかけていたこの美術館を立て直した偉大な先祖、フランコ・コンティーニの夢がようやく叶ったのだ、それは百年越しの夢、それも叶うはずもない夢だったのだ。
フランコは死の床にあってなお、この絵の所蔵を熱望していたと伝えられる……その絵がこうして目の前にあるのだ、それが自分の代で叶うとは想像もしていなかった、それだけに誇らしいと言うよりも信じられない気持ちの方が強かった。
実際のところ、ウィリアムズからこの話を持ち掛けられた時は半信半疑だった。
まるで信用していなかったわけではない、ウィリアムズが信頼に値する人物であることは長年の付き合いで良く知っている、だが、今回の話は彼らしくないとも思った、不確定要素が多すぎると感じたのだ、だが自分が約束しなければならなかったのは一億二千万でなら『イザベラ・ポリーニの肖像』を購入することだけ、金額が約束と違っていればNOと言いさえすれば良い……期待はできるがあてには出来ない、そんな印象だった。
だが、ウィリアムズが言った通り、イザベラは二億で競り落とされ、パリで人々を魅了し、アメリカで小説と映画の題材となってどんどん知名度を上げて行く、ウィリアムズの目論見が次々と現実のものとなって行くのを目の当たりにしてただの期待に過ぎなかったものが現実味を帯びて来た、『モナ・リザ』と並ぶ知名度を得るようになる、と言うウィリアムズの言葉も決して大げさなものではなくなった……だがそれだけにニューヨークがイザベラを手放そうとしないのではないかと言う心配も頭をもたげていたのだが、今、こうして約束は守られたのだ。
「久しぶりに映画でも見ないか?」
一年ほど前、映画がイタリアでも封切られると、ロベルトは妻を誘ってみた。
「あら、珍しいわね」
「何を見たい?」
「それはもう、『イザベラ・ポリーニの肖像』よ!」
映画を見終えた妻はイザベラの物語に、その映像美に夢中になっていた。
「いつか実物を見てみたいわ……」
とも言った、その時はまだイザベラの旅の最終目的地はフィレンツェ美術館なのだとは妻にさえ明かせなかったが……。
ロベルトはスマホを取り出して妻の番号にカーソルを合わせた。
「今からちょっと美術館に来れないか?」
「何? どうしたの?」
「見せたいものがあるんだ、ぜひともね」
「何かしら?……でもいいわ、行くわ」
「ああ、館長室で待ってる」
(……彼女の反応がフィレンツェ市民の反応の尺度になるな……)ロベルトはそう思った。
だが、それは測る必要もないくらいだ、感嘆の声を上げて夢中になるに決まっているから……。
いや……妻に見せる前に、ぜひともこの絵を見せなくてはいけない人物がいる。
ロベルトは館長室へ向かった、フランコをイザベラと対面させるために……。
作品名:『イザベラ・ポリーニの肖像』 改・補稿版《後編》 作家名:ST