『イザベラ・ポリーニの肖像』 改・補稿版《後編》
11.エピローグ
「『幻の名画に』……」
「『イザベラ・ポリーニの肖像』に……」
ロンドンのパブで祝杯を挙げる二人の男。
もちろんロバート・ジョーンズとジェームズ・ウィリアムズの二人だ。
実はいかにも堅物と言う外見に反してウィリアムズはスコッチを一本空けてからでも法律書が読めるほどの酒豪、逆にジョーンズはビールをジョッキ一杯飲んだだけで真っ赤になるほど酒に弱いのだが、今夜ばかりはジョッキになみなみと注がれたビールを一気に乾した。
「おいおい、そんなペースで飲んで大丈夫か?」
「祝いの酒だよ、気分が良い酒は悪酔いしないものさ」
「そうかな? まあ、今日はどれだけ酔いつぶれても私が面倒を見てやるがね」
「ああ、多分面倒をかけることになるだろうが、その時はよろしく頼むよ」
二人は笑い合うと二杯目のビールを注文し、もう一度グラスを合わせた。
パオロ・ポリーニから競売の話を持ち掛けられた時、時間の猶予はあまりないことはわかっていた、クリスチャンズとザビエルズが扱わないとなれば、パオロはアラブが中国の富豪と接触して売り込むことが容易に想像できたからだ。
非公式にだがクリスチャンズは一億の値を付けた、それ以上の額であればそのまま売却してしまうだろう、そうなれば個人に私蔵されてしまう可能性が高い、美術館に貸与されたとしてもヨーロッパから遠い地になる。
一億の絵を二億で売る、この難題を前にしてジョーンズの頭に浮かんだのは付加価値を付けることだった、しかし『イザベラ・ポリーニの肖像』は五百年間門外不出だった絵画、伝説的な名館長だったフランコ・コンティーニが絶賛し、熱望したが叶わなかったことによって『幻の名画』と呼ばれるようになったことは大きな付加価値だが、それ以外のストーリーは望むべくもなかった。
その時に思いついたのがイザベラを小説や映画の題材にすることだった。
ヒントは彼の妻がくれた、彼女はアメリカの恋愛小説と映画に夢中になり、別段観光名所もないごく当たり前の農村にある実在の橋に行ってみたいとしばしば彼に訴えていたのだ。
小説がベストセラーになり、映画がヒットすれば、その経済効果は大きい、ニューヨーク市立美術館は市が運営する美術館、市に多くの金が落ちれば税収も上がる、五千万ドル以上の増収は充分に見込めるはずだ。
それに加えて入場者数の伸びも当然期待できる、それも爆発的にだ、そして『イザベラ・ポリーニの肖像』を使用することを許可することの対価として小説や映画の売り上げからも一定の収入を得られるようにすることも可能だ。
それらを合算すれば、ニューヨーク市と市立美術館は八千万から九千万ドルを得られるはずだ。
そして、そんなことはパリやフィレンツェでは望めない、ロンドンでも無理だ。
ニューヨークでしか起こせない『奇跡』なのだ。
しかし、小説が書き上がり映画化の目途がつくまでには相応の時間も要る、まずは今すぐに買える人物なり組織なりが必要だ。
しかも計画が上手く行かなければ大きな損失になるリスクがある。
それを承知の上で、二億ユーロで落札してくれる人物や組織が存在するだろうか……。
その人物に心当たりを持っていたのがウィリアムズだった。
彼はパリ一の画商、ベルナルド・マーティンと親しく、強い信頼関係を築いていたのだ。
加えてフィレンツェ美術館館長のロベルト・コンティーニとも親しい、この計画はウィリアムズの協力なしには成り立たないものだった。
ニューヨークにはジョーンズが太いパイプを持っていた、他でもない、ニューヨーク市立美術館々長のデビッド・フォークとのパイプだ、しかもフォークは元ニューヨーク市議会議員だった、顔が広い上に市長とも親しい間柄、美術館長でありながら経済にも通じている、正にうってつけの人物だった。
ジョーンズ、ウィリアムズ、マーティン、フォーク、コンティーニ、この五人の誰か一人が欠けてもこの計画は成立しなかっただろう、歯車が一つ欠けただけでどんな機械も作動しないものだ。
そして、その誰もが同じ思いを抱いていなければ計画は迷走しかねない、『イザベラはフィレンツェにいるべきだ』と言う思いだ。
『イザベラ・ポリーニの肖像』の取引において、敗者は存在しない。
ベルナルド・マーティンは既に著名な画商だったが、その彼が『イザベラ・ポリーニの肖像』を二億と言う高額で購入ことで彼の名声は更に高まり、世界中の画家や収集家がこぞって彼の元へと集まるようになった。
イザベラを公開することで得た三百万ユーロを別にしても、マーティンが得たものは名声だけではない。
『イザベラ・ポリーニの肖像』を購入することによってニューヨーク市が得た金の総額は、最終的に一億五千万ドルに上った、ユーロにして一億三千万ほど、購入価格と売却価格の差額八千万ユーロを引いても五千万ユーロ、アメリカドルにして五千五百万がニューヨーク市の手元に残った計算になる。
しかも、メトロポリタン・ミュージアムの影に隠れて今一つ上がらなかった市立美術館の知名度も上がり、売却時に『イザベラをフィレンツェに還す』と発表したことで館長であるフォークの名もまた美術愛好家の記憶に刻まれることとなった。
そしてフィレンツェ美術館。
そもそも『幻の名画』と言う呼称は名館長フランコ・コンティーニに由来する、それが世に出るとあれば黙って見送るわけには行かない、だが二億ユーロと言う額は美術館フィレンツェ美術館が手を出せる金額を大きく上回っていた、泣く泣く諦めざるを得なかったのだ。
しかも、四年にわたる旅を終えてフィレンツェに戻ったイザベラは、あの『モナ・リザ』にも負けないほどの知名度を得ていた、購入額一億二千万ユーロの大半は借財だが、『イザベラ・ポリーニの肖像』が輝きを放っている限り、返済に窮するようなことはないだろう。
そして、クリスチャンズを辞したジョーンズ、ザビエルズを辞したウィリアムズは、一連の売買を巡る手数料を得て、共同出資で念願の画廊を開いた。
これからは会社のためでなく、自由に絵画の売買を通じて美術界に貢献することもできるようになったのだ、それは二人の念願でもあり、喜びでもある。
おっと……ひとり重要な人物を忘れていた。
ミセス・ジョーンズだ。
意識しての提案ではなかったとはいえ、夫に大きなヒントを与えたのは紛れもなく彼女の功績だ。
だが、彼女がこれまでに得たものと言えばアメリカ旅行だけだ、念願の橋を見ることができたことに加えて、ニューヨークの街を満喫し、ニューヨーク随一のレストランで豪華なディナーを楽しめたのだが、彼女が果たした役割に対する対価としてはまだ不十分だろう。
それは夫であるロバートが残りの一生をかけて埋め合わせて行く他はないが、ロバートにその心構えが充分にあることを願う限りだ……もっとも、画廊の共同経営者であるウィリアムズも彼女の功績を認めているので、ロバートを通じて『夫婦で旅するのに十分な時間』をプレゼントすることに異存はないそうだが……。
そしてこの計画の主役である『イザベラ・ポリーニの肖像』。
作品名:『イザベラ・ポリーニの肖像』 改・補稿版《後編》 作家名:ST