異時間同一次元
生徒はというと、そんな学校の言いなりになっている生徒がほとんどで、一部の不良は学校に来なくなり、非行に走るというワンパターンな状況。
そんな学園に一人の先生がやってくる。たいていは校長先生が独断で雇ったりするパターンなのだろうが、とにかくやってきた先生は熱血先生か、あるいは破天荒な先生で、ハチャメチャしながら、学校を変えていくというストーリーだ。
客観的に見ていれば、痛快な作品なのだろうが、学生の立場から見ると、
「そんな都合のいい話、あるわけない」
と思うのがオチだろう。
小泉も、今までに似たようなドラマを見てきた。小学生の頃は面白く見ていたが、中学生になると、次第に見なくなってきた。やはり、都合のいい話を痛感してきたからに違いない。
だが、そんな学園ドラマも、録画して何度も見ていると、次第に違和感がなくなってきた。それは他のドラマも同じことで、何度も見ているうちに時間を忘れて楽しくなってきたのだ。
それでも、警察関係モノだったり、愛欲関係のドラマを見る気にはなれなかった。性格的に受け付けないと自分で分かっているのだろう。
「大人の世界の汚い部分」
という思いが強くあり、見る気にはなれないのだろう。
学園ドラマは自分の小説にはならないと思っているので、単純に見るだけで楽しむことができる。やはり自分の小説は、純愛モノやミステリーに近いものが書ければいいと考えていた。
ただ、学園ドラマでも見ていると、そこに出てくる女の子で気になる子が一つのドラマに一人か二人はいるものだ。
「あんな子と付き合えたらいいのにな」
と漠然と考えるが、考えるのは漠然としたところまでだった。
「付き合えるとしたら?」
というところに踏み込んでくると、自分の頭では思い浮かんでこない。
自分を客観的に見れば、付き合っている二人を見ることができると思っていたが、どうもそう簡単にはいかないようだ。
であれば、登場人物を自分に重ねるように描けばいいのだが、あまり近づけすぎるとせっかく客観的に見ているのに見ている様子がぼやけてしまう。
「それでも、自分であってほしい」
という思いはあり、どうすればいいのか考えていたが、ある日、思い浮かんだことがあった。
「そうだ、シルエットのように考えればいいんだ」
それは、昔小学生の頃に学校の講堂で見た人形劇に似ていた。
その人形劇は影絵のようなイメージで、シルエットが印象的だったのを覚えている。だが、印象的ではあったが、小泉は影絵の人形劇が気に入っていたわけではない。むしろ嫌いだった。
それなのに、どうして影絵を思い出したのかというと、
「客観的という発想を思い浮かんだ時、最初に感じたのが影絵のシルエットだったのだが、その時は、昔のイメージから敬遠していた自分が表に出ていて、すぐに頭の中で打ち消したんだ」
ということが分かったからだ。
少し時間が経ってから考えてみると、影絵は決して嫌なものではなかった。昔嫌なイメージがあったのは、怖かったというイメージがあったからで、薄暗い光の中に浮かびあがる影はまわりの明るさをさらに薄いものにしようとしているように思えたからであったが、後から思い出すと、まわりの明るさが暗かったのは、影がまわりにもたらしたイメージではなく、あくまでも客観的にまわりを見せるための演出だったと考えれば、不気味な雰囲気にも納得がいくというものだった。
小泉は、人形劇のシルエットを思い出すことで、自分が小説を書けるようになったのではないかという思いを持った。実際にはもっと前から書けていたはずなのだが、なぜそんな感覚になったのかというと、きっと人形劇のシルエットが、小説を書いている時の小泉に何かを訴えていたのかも知れない。
――ひょっとすると、シルエットがすべて自分に見えているような錯覚に陥っていたなどということがあるのか?
と感じたほどだった。
小泉はもう一つ気になっていたことだったのだが、
「どうして、あんなに背景が中途半端な明るさなんだろう?」
という思いだった。
確かに背景が明るいと、目がどうにかなってしまう可能性があるというのが直接の理由なのだろうが、それ以外にも何かあるような気がして仕方がなかった。
小泉は影絵を今は実際に見ることはないので、昔の記憶を呼び起こしながら想像を膨らませていたが、急に何かに思いついたように感じると、思わず吹き出してしまう自分に気がついた。
「そっか、そういうことか」
一人で納得していたが、この発見は、最近にはない思い切った発見だと感じ、その重大さのわりに、自分としての感動が少ないことに吹き出しそうになったのだった。
影絵をいうのは、影である。当たり前のことであるが、分かっているのに、それを認めたくないと思っている自分がいた。それは影絵が作る不気味さから来るものなのだが、その不気味さは影だけではない。背景の中途半端な明るさにも原因があった。どちらもそろわなければ気持ち悪いと感じることはないだろう。
そこまで考えてみると、自分が影だけではなく背景も含めたところで全体を見渡していることに気が付いた。ただそれは当たり前のことであり、誰もが同じ見方をすることだろう。
しかし、影絵だけに集中して見ていると、一つのことに気が付く。
「そうだ、影絵自体が影なんだ」
つまりは、影絵が作り出すはずの影が存在してしまうと、影絵とその影との境界線が分からなくなってしまい、本来の影絵の役割が果たせなくなってしまうことだろう。
「だから、まわりが薄暗いんだ」
薄暗いことで、影を作り出す光の調度をはぐらかしている。
それが、まわりを薄暗くさせている正体なのだ。そう思ったが、
「本当にそう思ってまわりを暗くしていたんだろうか? あくまでもケガの功名なだけではないか?」
と思えた。
確かにそうである。だが、ケガの功名とはいえ、事なきを得た上に、人に悟られることなくその効力をいかんなく発揮しているのだから、これは素晴らしいと言ってもいいだろう。
のっぺらぼう
小泉は自分が小説を書けるようになったことが嬉しかった。中学入試に成功した時とはまた違った喜びだった。一番の違いは、中学入試の時はまわりが祝福してくれたが、小説を書けるようになった時は、誰もそのことを知る人がいなかったということだ。中学入試に成功した時の喜びは中途半端なものではなかったが、それは逆にプレッシャーになっていたことを、その時の小泉は知らなかった。
実際に入学してまわりが自分よりも成績のいい連中で、それまで、
「自分よりも上はいない」
とまで思っていた小学生時代が当たり前のように思っていたので、その時の戸惑いも中途半端ではなかった。