異時間同一次元
本の背を眺めて悦に入ることもあり、その瞬間が快楽の時間でもあった。その頃には何が楽しくて何を自分が欲しているのか分からない時期だったのか、目の前のことだけに集中していればよかったのだ。
そのうちに小泉は、文庫本にある歴史の本に興味を持った。戦争の本だったが、シュミレーションのようで、実際には史実にはなかった話を面白おかしく書いた話だった。
登場人物も、登場する国家も架空の存在、しかし、国家も人物も、
「明らかにモデルはいる」
と思わせる話で、普通であれば考えてはいけないはずの、歴史上にある、
「もしも」
という発想から作られた話だった。
最初は、読もうと思うはずもない作品だったので、手を伸ばすこともなかったが、なぜかその日は、その本に目が行ってしまったのだ。
「単純に目が合っただけではないか」
と言われればそれまでなのだが、小泉にはそれだけではない何かがあったように思えたのだ。
史実の方は、今まで読んできた本で把握はしている。細かい内容までは覚えていなかったが、大筋では分かっているので、読んでいて違和感はなかった。もし、よく分からないところがあれば、本棚にある本を開けばいいのだし、ネットで検索することだってできた。
だが、小泉はなるべくネットを利用することはしたくなかった。
「本の中のことは本に解決してもらいたい」
という小泉独自の考えがあり、一種のこだわりのようなものだった。
小泉は本を読みながら、
「次はどんな本を読もう」
と考えることもあった。
ほとんどのページを読み終えている時で、読みながらでも、
「そろそろ終わりに近づいているんだ」
と、本の厚みを気にすることなく感じる自然な感覚に陥った時、次に読む本のことを考える時があった。
これは毎回のことでもない。それに考えたとしても、しばらく考えるようなことではなく、一瞬考えてすぐに違うことが頭を過ぎるような感じだった。
小泉は歴史小説を読んでいると、
「確かに楽しいんだけど、何か物足りない」
と感じるようになっていた。
そこで、今まで敬遠していた小説に手を出してみることにした。ジャンルは何がいいか考えてみたが、やはり初級編としては、ミステリーがいいと感じていた。
それも、最近のミステリーではなく、昔に書かれた推理小説なるものを読んでみたいと感じた。
「明治後期から、大正、昭和初期の小説なんかいいよな」
と考えた。
それは、今とあまりにも時代が違っているのだが、どこか時代錯誤を感じさせない何かがあると思ったからだ。
それはやはり戦争の歴史を本で読んできたからだろうか。戦争の歴史とミステリーとでは次元が違っているのは明らかだが、それだけに同じ時代で違う次元の話を読んでみるということに興味が湧いたのだ。
当時のミステリー小説というのは、有名な探偵がいて、その人が事件を次々に解決していくという話が主流だったようだ。
数人の有名な私立探偵がいて、それぞれまったく違うキャラクターであり、事件解決への道のりも、それぞれだった。
だが、時代は探偵の数ほどあるわけではない。同じ時代に別々のまったく違った探偵が事件を解決する。それはその探偵のために用意された事件なのか、それとも事件が探偵を選ぶのか、まるで禅問答のようだが、小泉にはそう考えると、大いなる興味が湧いてきたのだ。
「この頃のトリックは、時代が作ったトリックなんだな」
と感じた。
小泉が興味を持ったのは、やはり時代背景である。事件の起こる時代背景、そして、登場人物が時代背景を作り、解決する探偵が、時代を証明しているかのように感じると、読んでいて、何が醍醐味なのか分かってきたような気がしたのだ。
引きこもっている間に、何冊のミステリーを読んだだろう。興味のある作品がは何度も読み返して、今度はそれまでの本のように、内容を忘れたりはしなかった。
「小説って、素晴らしいんだ」
と、小泉を感動させた。
自分でも小説を書こうと思うようになったのは、いくつの時だっただろう。ミステリーに嵌ってる時には確かに漠然としてだが、
「小説を書いてみたい」
という願望はあったはずだ。
しかしすぐに、
「俺に小説なんか書けるはずないよな」
と、自己を納得させようとする自分がいることに気が付いた。
無謀なことへの挑戦を諦めさせるために自らが説得するというのは、結構難しいことだ。何しろ、自分でも無謀だと分かっていることを説得しようとしている自分も分かっているからで、挑戦しようとしている自分にも無謀なことくらい分かっていて、それでもやってみたいと考えるのは、それなりに何かがあるからだろう。
そこに自信めいたものが少しでもあれば分かる気がするが、説得する方にはどう見ても自信のようなものがあるようにはとても思えなかった。それを思うと説得が難しいことを分かっているのだった。
だが、幸いなことに、無謀なことを考えるわりに、諦めも悪い方ではなかった。
――どうせ無理なんだ――
この考えが最初から頭の根底にあり、だからこそ無謀だと思うのであって、逆に諦めが悪くなかったら。無謀などということを考えないだろう。
無謀だと考えないからこそ、諦めが悪いのであって……、要するにこの議論は、堂々巡りを繰り返すだけだった。
気が付けば、小説を書くことを諦めていた。
「こんなトリック、俺に思いつけるはずもない」
というのが本音で、まだその頃はミステリーというと、トリック中心に見ているところがあった小泉だった。
だが、ミステリーを読み漁ってくると、
「トリックというものが、ストーリーの合間に絶妙に嵌りこんでいるから完成されたものになるのであって、ストーリーの充実がなければトリックも生きない」
ということに気が付いたのは、中学二年生の頃だっただろう。
「読めば読むほどミステリーは分からなくなる」
と、小泉は思っていたが、それでも同じ小説を何度も読み返していた。
一度目よりも二度目、二度目よりも三度目と、小説というものは、読めば読むほどストーリーに引きこまれていくものだった。
ミステリーと言っても、人間物語が小説である。動機という形でミステリーには感情が含まれてくるが、ミステリーの中には、動機云々よりも人間関係を重視している話を書く作家もいた。
彼の作風は、読者には、
「どこに動機があるんだ?」
ということを考えさせるもので、結局最後までその動機については分からない。
最後まで行ってやっとその動機が分かるのだが、分かった動機がストーリーの幹を構成しているわけではない。あくまでも枝葉であって、読んでいる人を引きこむところではない。
しかし、人間関係だけは忠実に描かれていた。ミステリーともなると、人間関係の複雑さは必須と言ってもいいだろう。下手をすると、煩雑になりかねない。しかし、彼の作品ではどんなに人間関係が複雑でも、読者に分かりやすく丁寧に書かれている。動機がクローズアップされないのもそれが原因ではないかと小泉は考えていた。
「ミステリーなんて、子供が読む本だ」
という大人もいるが、小泉は決してそうは思わない。