異時間同一次元
無防備な歩き方ではあるが、隙のない歩き方でもあった。少しでも自分が横にずれたりすると、急に相手が振り返り、
「お前のいることは分かっていたさ」
と言って、例の化粧を施した顔のまま、言われるのだと感じた。
その声はどこから発せられるものなのか分からない。まるで喉の器官がつぶれてしまっているかのようなその声は、恐怖というよりも、ヘビに睨まれたカエルである自分が、まったく何もできずに捕まってしまっている様子を感じ取らせた。
「俺はこのまま食われてしまうんだろうか?」
と感じさせるほどの恐怖なのだから、何も無理して道化師を追いかけなくてもいいはずだった。
「怖いもの見たさ」
という言葉があるが、それとは違っている。
怖いものという言葉とは次元が違っているように思う。怖いものの原点がどこにあるのか、それが問題なのだが、お化けや幽霊のたぐいとどっちが怖いのかと言われると、
「架ける計りがない」
という返答しかできない気がする。
目の前の道化師との距離も均等にしておかなければいけない。近づきすぎれば気配で分かるだろう。しかし、遠すぎても相手に却って意識させるかも知れない。それだけ注目する方も意識を集中させなければいけないのだから、その気配を相手が気付かないとも限らない。
その日は晴れているはずなのに、途中から舗装されていない道が、ドロドロになってくるのを感じた。途中までは固い道の上に、砂塵すら舞っているかのような雰囲気だったのに、どうしてここまで急変してしまっているのか、理解できなかった。
ただ、これが夢だということに気付いた最初の時が、この時だったのかも知れないと早良は感じた。
夢を何度も限りなく見てきた自分が、夢を見ているという意識を感じたことがあるのはどれくらいだろう。数えるほどしかないような気がする。
ただ、夢を見ているという意識を夢の中で封印してしまっているという意識は確かにある。それがどれくらいのものなのか想像もつかないが、夢を見ているという意識は確かにあったのだ。
その時の共通性を思い出そうとするのだが、思い出せない。
「ひょっとすると、そんな思い出し方をすることで、せっかく思い出せるかも知れないという芽を摘み取っているのかも知れない」
とも感じたことがあった。
早良はその道化師を追いかけながら、
「あの人の素顔って、どんな顔をしているんだろう?」
と考えた。
以前、道化師の姿を見た時にも同じことを考えたはずだったのに、そのことをすっかり忘れている。
忘れている原因は、
「あの時、道化師の顔が目の前にあって、しかも、それが偶発的に顔と顔が鉢合わせた感じだったんだ」
という理由だった。
思いがけず鉢合わせたことで、相手の顔に対しての意識が飛んでしまった。まず最初に感じたことは、
――相手に自分の顔を凝視されてしまった――
ということだった。
相手に凝視されてしまったことで、完全に自分の意志は消えてしまい、相手の言いなりになってしまう自分を感じた。そのことへの恐怖に、
――自分の意識をできる限り消し去ってしまおう――
という意識が働いたに違いない。
道化師というのは、そういう意識には長けているのだろう。その化粧から、相手に自分の心境を悟られないことは分かっているので、安心していることだろう。勝ったような気がしているに違いない。
早良は道化師がゆっくり歩いているのをいいことに、少し余裕を感じながら歩いていた。
――どうせ追いついても仕方がないんだ――
と感じたからだった。
だが、歩きながら少しずつ道化師の歩みのスピードが速まってきていることに気付いていなかった。
途中まで来ると、ちょうど四つ角に差し掛かる少し手前から道化師が急におどけたようにスキップを踏みながら、軽やかに角を曲がっていくのが見えた。
「しまった」
思わず声に出してしまったが、早良も急いで道化師の後を追った。
「逃してなるものか」
とばかりに小走りが本気の走りとなり、疾走している自分に気が付いた。
道化師が曲がったその角まで、あと少し。その時、道化師が曲がってからどのような行動を取ったのかということを、ふと頭の中で考えている自分がいた。
早良に追いつかれないように、早良が曲がってくるのを意識しながら、それでいて、少しでも角から遠ざかってしまうかのような様子が思い浮かんだ。
その時初めて早良は、
「追われる人間の辛さ」
というものを知った気がした。
今まで自分が誰かに追われるという意識をしたことがない。学校の成績もあまりよくなく、いつも自分の前には人がいるのに、自分の後ろには人がいないという意識しかなかった。
後ろから追われるという意識はなかったが、誰もいないことに不安は感じていた。それは追われるものの辛さとはまったく違ったものであることは自覚できていた。
「俺も追われてみたいな」
という意識もあった。
だが、基本的に追われることに慣れていないので、絶対に前がおろそかになってしまうことは分かりきっていた。
早良はそんなことを考えながら進んでいくと、角まであと少しだと思っていたのに、なかなか角まで辿り着くことができない。
「どうしてなんだ?」
と考えてみたが、その答えは見つからない。
「いや、何か答えを見つけないと、あの角まで辿り着くことができないようになっているんじゃないか?」
と思うようになった。
しかし、何をどう考えればいいのか分からなかった。そう思っている間に刻々と角までは近づいているはずなのに、辿り着くことができない。
「まるで堂々巡りを繰り返しているようだ」
と思ったが、それこそが真理なのかも知れない。
「堂々巡りを繰り返すことは悪いことではない」
と考えた。
「急がば回れ」
という言葉もあるが、堂々巡りは正解を求めるために不可欠なものだと言えるだろう。
だが、その正解というのがどこにあるというのか、早良は考えてみた。
「そうだ、正解なんて人それぞれ、皆が一つのことに向かう必要はない。だからこそ同窓巡りを繰り返しながら、自分の行きつく先を探っている」
と考えれば、辿り着けないわけも分かる気がした。
すると、さっきまで辿り着けないと思った角まで辿り着いた、一気にその角を曲がった早良だったが、そこには予期せぬ者がいて、
「ビックリして心臓が止まってしまうかのようだった」
と感じた。
早良の予想では、そこにひょっとして道化師が待ち構えているかも知れないと思い、心の隅に予感として持っていなかったわけでもない。だから、そこに人がいたことに対して、それほどの驚きはなかった。
だが、そこにいたのはまったく想像もつかない人で、一瞬そこに、
「鏡があるのではないか」
と感じたほどだった。
つまりそこで見たのは自分の顔だった。
「いや、貌だったはずだ」
一瞬、驚きから顔を背けた早良だったが、意を決してもう一度見ると、そこにはさらに驚くべき人が立っていた。
「のっぺらぼう」
そう、目も口も鼻もない顔面が寸胴になっているのっぺらぼうだったのだ。