異時間同一次元
「確かに影絵は怖いと思われる人が多いかも知れません。どうしても、影を強調するために背景が夕日のようなイメージになってしまう。それは妖怪が出てくる時に見られる時間帯ですよね。だからその気持ちはよく分かります。しかし、私は怖いというのもひっくるめて、影絵を好きなんです。怖いというのは確かにあまり感じたくない感情だと思いますが、怖いものほど面白いと私は考えています。妖怪の話にしても、怖いけど見てしまう。それだけ引き込まれるものがあるということですね。それは怖いと思わせるものに対して引きこまれるのではなく、怖いということそのものに引きこまれているように私は思っています。だから私は影絵を子供たちに見せるために、全国をまわるということを考えるようになったんです」
足利先生の言葉には、妙な説得力があった。
早良にも似たような感情があったような気がする。そしてその感情は、
「感じてはいけないこと」
として封印してきたと思っている。
ただ、これは早良に限ったことではなく、他の人みんな同じではないだろうか。そのことを誰にも知られたくないと思う気持ちから、
――こんなことを考えているのは俺だけなんだ――
と、言葉に決して出せない思いを、封印していたのだろう。
「では、そろそろ足利先生に影絵を披露していただきましょう」
とリポーターは、明後日の方向に指を向けると、カメラもその方向に向きを変え、そこに現れた影絵のセットを写し出していた。
ここまで来ると、さっきまでテレビを見ていた人たちは散り散りになっていて、どこかに行ってしまった人、雑誌を読んでいる人と、テレビを見ている人は少なくなった。
――やっぱり、影絵なんていうものに興味のある人はいないんだ。というよりも、怖いということをテレビで宣伝しすぎたことが原因ではないか。そうだとすれば、テレビ局も甘いよな――
と感じていた。
画面に映し出された映像は、確かに怖い印象だった。話を聞いていなくてもこの映像を見ただけで異様な雰囲気であることは誰にでも分かることだった。
「先生が用意できるまで、少しお待ちください」
と、さらに待たせるのだから、テレビの画面から人が遠ざかるのも無理もないことだった。
足利先生が用意している場面は映し出されない。当たり前のことだが、本当は視聴者としては、皆その姿を見たいのではあるまいか。早良はそう思うと、待っている間にその光景を想像している自分に気付いた。
もちろん想像の域を出ることができないので、本当の姿とはかけ離れたものなのだろうが、早良にはそれでもよかった。目の前にそのうちに写し出された影絵を想像するだけで、何か過去の記憶を呼び起こされる気がしたのだ。
早良は背景の夕日ばかりが気になってしまい、恐怖を拭い去れずにいた。夕日のバックに映し出される影絵に不気味さを感じながら見ていると、気が付けば背景は少し変わっていた。
そこに見える背景はどうやら室内を映し出しているようだった。今回のテーマとなっている影絵の時代背景は、どうやら江戸時代の雰囲気のようだ。江戸時代の長屋をイメージしているからか、障子が出てきたのだ。
バタッと閉まった障子の向こうには、やはり夕日と同じ明るさの背景が映し出されている。そこには人間の背景が映っているが、髪の毛の長さから老婆のような気がした。
実際に老婆で間違っていなかったのだが、どうして瞬時にしてその場でその光景が老婆によるものなのか分かったのか、自分でも不思議だった。当てずっぽうというわけでもなく、明らかな自信がそこにはあった。老婆でなければいけない何かをその時に感じたのだろう。
そのイメージがあってか、早良は夕日を見ると、その時に感じた老婆を思い出すのか、夕方になると、風のないのを感じた時、近くから老婆が自分を見ているのではないかという衝動に駆られた時期があった。
その時期はそんなに長くは続かなかったが、それだけに、
――あれは夢だったんじゃないか?
と感じさせるものであった。
夕日を見つめていると、いつもは風を感じる。しかし、風をまったく感じない時が時々あるのだが、それが夕凪の時間であるということは分かっている。だから早良は夕方になると、
「今日は風が吹いているのかな?」
と最初に感じるのが癖のようになってしまっていた。
あまりにも無意識なので、風のあるなしを感じているという意識さえ、無意識だったりしているため、たまに風を意識する自分が、普段から風を感じているということに疑う余地も持っていなかった。
早良は、夕方を意識するようになってから、夕方近くの方が最近では意識してしまうようになった。夕凪が怖いという意識がありすぎるからなのか、それ以前に意識が行ってしまっているのだろう。
影絵を見たことを思い出していると、最近見た夢を思い出してしまった。
普通夢というと、
「目が覚めるにしたがって忘れていくものだ」
と思っていた。
しかし、その夢も目が覚めた時には確かに忘れていたはずなのに、なぜ後になって思い出すことになったのか、自分でも分からない。
実際に、今まで見た夢で、目が覚める時に忘れてしまった内容を、後になって思い出すなどということはなかった。思い出そうとする意識もなく、思い出せないまでも、思い出そうとする意識があったのなら、覚えていてしかるべきだと思っている。
夢を見るということは、意識の中に記憶として残っているものが、ふとした瞬間、表に出ようという衝動に駆られるからだと思っていた。つまりは、記憶として残っていることでなければならず、意識がその記憶と呼び起こそうとするために動くだけのきっかけがなければいけない。
早良にはその意識があったのだろう。そして記憶も……。
早良は影絵の恐怖が夢の中に出てきた気がした。そして影絵の中で、障子がバッと開いた瞬間を思い出した時、そこに道化師が立っているのを見た。
だが、いきなり道化師が立っていたわけではない。記憶を紐解いていくと、道化師がこちらに背中を向けて、ゆっくりと歩いていた。
道化師というと、その風体そのままに、歩き方も滑稽なものだと想像していたが、それは勝手な想像である。道化師と言っても、普段は普通の人間、感情もあれば、鬱状態に陥ることもあるだろう。
道化師がゆっくりと歩いているその光景は、昭和初期、いや、明治から大正に続く時代の雰囲気を感じさせた。小説で読んだ光景、さらにはその時代背景にのっとった、小説の映像化で見た光景を彷彿とさせる。
舗装もされていない道路、家のまわりには板塀があり、垣根や石塀、さらにはブロックのようなものではなかった。
板塀と舗装されていない道路の間には、溝を埋める板が何枚も連なっていた。まさしく映像で見た明治からいわゆる昭和の戦前と言われる時代までの光景だった。
早良は夢の中とはいえ、道化師の動向をハッキリと見えていて、後ろから追いかけているという意識もあった。
ただ、目の前を歩く道化師には追いかけられているという意識はないのか、まったく振り向こうとはしない。
要するにまったくの無防備なのだが、その無防備に対して油断ができないと思った早良だった。