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異時間同一次元

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 それとも、道化師というものが、相手に自分の気持ちを悟られないようにするために、顔を隠すような化粧を施しているのだと思いこんでいたからなのかも知れない。
 もちろん、その思いを否定することはできない。むしろ、その通りに違いないと思うからだ。しかし、逆に今から思い返して感じることができたと思うようになったことも無視できないことだと感じていた。
「子供の頃の記憶など、あってないようなものだ」
 という乱暴な考えもあるが、逆に、
「思い出すことができて、その時と違う感情を持てるのであれば、それは信憑性に十分なものではないだろうか」
 とも言えるだろう。
 早良は子供の頃から正義感の強い男の子だった。その正義感が本当に正しいものなのかどうかは分からないが、自分としては正義感を心の奥に隠し持つことで、自分が生きている意味を感じているような気がしていた。
 家庭のゴタゴタなど、自分には関係のないことである。大人が勝手に争っていることであって、なぜ自分が心を病まなければいけないのか疑問だった。だが、大人の勝手な理屈としては、
「お父さんもお母さんも、あなたを育てるということに関しては共通しての認識を持っているのよ。それなのに、子供のあんたは言うことを聞いてくれない。それがどれほどのストレスになってるか、分かってるの?」
 と、母親は子供に晃かなストレス発散からか、言いたい放題だった。
 だが、育てられているのは事実だし、下手に文句を言って、さらに神経を逆撫ですることは早良にとっても本意ではない。
 黙っていると、そのうちに何も言わなくなりやり過ごすようになったが、これが早良の性格を形成することになったというのは、皮肉なことであろうか。
「相手が文句を言ってきても、こっちが反応しなければ、相手はそれ以降、何も言ってこない」
 という思いだった。
 文句の一つや二つくらいはあっても、早くその場をやり過ごしたいと思えば、何も言い返さないことが一番だ。それからの早良が寡黙になっていったのも、そんなところがあったからだった。
 人と会話をしない。それがそのまま友達を作らない。いや、できないという原因に繋がって行った。だが、これは早良に限ったことではない。まわりの友達もおらずに一人でいる連中や、引き籠っている連中の大半は大小の差こそあれ、似たような考えの元、形成された性格だったに違いない。
 早良にとってサーカスを見に行ったその時、道化師の顔を垣間見たのだが、お互いに驚いていたのは間違いないだろう。道化師は表情が変わることはないので、その表情からその心境を計り知ることは難しい。
 しかし、分からなくとも、
――この人も俺と同じなんじゃないだろうか?
 と考えれば、おのずと見えてくるものがあるというものだ。
 早良は比較的小さな頃から、相手の気持ちが分からない時は、
――相手も自分と同じことを考えているんじゃないか?
 と思うようになっていた。
 実際にそう感じたことが間違いではなかったことは結構あった。もっとも、早良本人には分かっていないことだが、気配として感じていたのかも知れない。
 子供の頃に感じた道化師の思い、彼は自分の顔に道化の化粧がまとわれていることをどう思っているのだろう?
「ひょっとすると、顔に化粧が施されていることを意識していないんじゃないか?」
 と思えてきた。
 まわりはその印象の強さから、化粧をした道化師の顔ばかりを見ているだけだが、本人としては、化粧の施されていない自分の真顔を相手二見せていると思っているのだとすると、面白いものだ。
 確かにサーカスなどの道化師や、昔でいう、
「チンドン屋」
 と呼ばれた道化師の人たちにとって、その衣装は、今で言うコスプレのようなものであって、商売道具としてのユニフォームでしかないのだ。
 そう思うと、彼らの道化師の化粧は、本人の意志とはまったく関係のないところで存在していて、まわりも分かってはいるのだが、あまりの印象の深さにその意図を読みこめていないのだろう。
 だが、それこそが道化師になるゆえんではないのだろうか。相手に容易に気持ちを分からせないようにしながら、こちらの宣伝したいものにうまく誘導してくる。そのための方法が道化師の衣装であったり、化粧だったりするのだろう。
 早良は小学生の時に、
「フランケンシュタイン」
 という話を読んで強い衝撃を受けた。
 世の中で役に立つ人間を自らが創造しようとしたフランケンシュタインという博士が、その創造物に悪魔の心を植え付けてしまい、いずれはその怪物から殺されてしまうというような概要ではなかったか。
 これは、世の中に対しての警鐘であり、科学に対しての挑戦でもあった。この発想は恐ろしいというよりも、奇抜過ぎて、
「どうしてこんな発想が生まれてきたんだろう?」
 という作者のたぐいまれなる発想に驚かされたのだ。
 そして、自分が求めて、そして信じてきたものが一つ間違えると、正反対の大惨事を引き起こしてしまうということに繋がってくる。
 フランケンシュタインの発想は、その後の科学に一石を投じ、ロボット開発への大きな警鐘であり、そして限界を作ってしまった。
 その限界は結界と言ってもいいかも知れない。
 フランケンシュタインの発想があるから、人間はロボット開発の際に、その戒めとでもいうべき、
「ロボット工学三原則」
 というものを考案した。
 これは恐るべきことに、発案したのは専門のロボット工学者ではなく、SF作家だというから驚きだ。
 しかも、それが今から百年以上も前の話で、その小説を読んでいると、結界という言葉をどうして使用するのかということも分かってくるだろう。
 ロボット三原則には優先順位が存在する。その優先順位のために、開発された架空のロボットが、どうしてもそこから先に進むことができない結界に辿り着く。その結界というのはそこから先に足を踏み入れると永遠に抜けることのできない、
「無限ループ」
 に入ってしまうのだ。
 それを想像した早良は、まず考えたのが、
「底なし沼」
 という発想だった。
 沼に足を踏み入れると、もがけばもがくほど抜けられない底なしの沼。
「待てよ」
 底なし沼という発想もおかしなものであることに気が付いた。
 底がないということは、身体が埋まってしまってからも、沈み続けるということである。「ではどこまで沈み続けるというのか?」
 ずっと底がないのだと考えると、永遠に沈んでいって、地球の裏側にでも出てしまいそうな気がする。
 もちろん実際には途中にマグマがあり、そこまでしか沼は存在しえないのだろうが、沼をどこまでのものなのかということを考えていると、
「無限ループ」
 の発想に到達することだろう。
 無限ループの発想に入りこんでしまうと、まさに頭の中が、嵌りこんでしまった底なし沼であり、ロボット三原則を彷彿させるものとなってくることだろう。
 早良はフランケンシュタインからロボット三原則に繋がるこの発想にのめりこんだ時期があった。
作品名:異時間同一次元 作家名:森本晃次