異時間同一次元
――ピエロじゃないか――
とすぐに気付いて当然だった。
だが、その時の早良には、なぜかピエロという言葉よりも、道化師という言葉が頭を過ぎったのだ。
最初に覚えたのは当然ピエロという言葉だった。道化師という言葉も後から知ったが、それがまさかピエロのことだと分かるまでには、かなりの時間が掛かったような気がした。これは早良に限ったことではなく、誰も口にしないだけで、皆感じていることなのではないだろうか。
目の前にいるのは確かに道化師。ピエロとは違うものに感じられた。
ピエロというと、その素顔はハッキリとしないにも関わらず、そのパフォーマンスで人を楽しませる雰囲気を持っているので、表情がなくとも、想像できるものでなければいけないと思っていた。
しかし、目の前にいるその人は、見た目は笑っているように見えるのに、その奥の顔には表情がまったく感じられない。別におどけたパフォーマンスをするわけでもなく、ただ早良を見つめている。
人から見つめられることには慣れていない早良だったので、完全に金縛りに遭ってしまった。
――どうすればいいんだ――
完全に睨みを利かされ、身動きが取れなくなってしまった早良は、まるでクモの巣に引っかかってしまった獲物のようだった。
声を出したいのだが、声にならない。
もっとも、何と言って声を上げようと思っているのか、自分でも分からない。
声を挙げるというのは、自分から言いたいことを発するわけではないのだ。もちろん、自分の感情を爆発させることもあれば、熟慮してから口にすることも大半なのだが、咄嗟の場合には、自分の考えとは裏腹な言葉が声になって発せられるものなのかも知れない。
声も出せずに相手に睨まれているままにしていると、相手の顔がまったく変化していないことに気付いた。相手が道化師なのだから当たり前なのだが、その顔に施された化粧の奥には、感情を持った人間が存在しているはずである。
相手もこちらの心境を思い図っているのだから、それに対しての表情を起こそうとしても不思議はない。道化師というものは、その表情を隠すために化粧を施し、奇抜な衣装に奇抜な行動を見せているのではないか。そう思うと、相手も人間を怖がっているからの行動であると言えなくもない。別に臆する必要などないのだ。
早良はそのことを意識したことがなかったはずなのに、実際に道化師に見つめられると、以前にも同じようなことを考えたことがあったかのように感じられ、自分でも不思議だった。
早良は自分の家庭を思い返してみた。
家族はバラバラになっていて、誰が何を考えているのか分からない。何を言いたいのか聞いてみたい気もするが、
「聞くのが怖い」
というのが本音だった。
怖いくらいなら、聞かない方がいい。聞いて後悔するくらいなら、相手から言うのを待っているしかなかった。
だが、待っていてもいい方向に向くはずなどないと思っている早良には、
「怖いけど、聞いてみたい気持ちもある」
という思いもあった。
「何で俺だけがこんな嫌な気持ちにならなければいけないんだ」
親も、そしてまわりも嫌な気分になっているのかも知れないが、自分と同じ気持ちの人はいるはずがない。そう思うと、自分のまわりがすべて悪いという思いに至り、自分だけが不幸の真っただ中にいるという被害妄想に駆られてしまうのだった。
「次郎君は、大人が嫌いなんだね?」
籠ったような声で道化師が聞いてきた。
その声は、ドラマなどで誘拐犯が電話を掛けてくる時に使っているボイスチェンジャーのような声だった。目の前の道化師はそんな機械を使っているわけではないのにそんな声を聞こえてきたということは、それがこの人の地声であることを示していた。
――だとすると、この人は道化師なんかではなく、本当に人間ではないのかも知れない――
というおかしな発想になった。
だが、この状況でのこの発想は決して無理なものではない。極限状態とまではいかないが、恐怖がこれでもかと早良に襲い掛かってきた状況での発生された声に対しての感情だった。
家庭はそれから崩壊の一途をたどり、結局最後に家族でどこかに出かけたという記憶というのは、
「どれが最後になるんだろう?」
というほど曖昧なものになった。
「相当昔のことのようだ」
という思いもあれば、
「ごく最近だったような気もする」
という、正反対の思いが、心の中である程度の信憑性を持った形で残っていたのだ。
そのせいもあってか、サーカスを見に行って、そこで道化師に出会ったなどという記憶は、家庭が崩壊してからしばらくは、頭の中には残っていなかった。それでも将来思い出すことになるのだから、記憶の片隅にくらいは残っていたに違いなかった。
家族の崩壊で早良は母親に引き取られた。その頃には中学生になっていた早良だったので、家族が崩壊したと言っても、まるで他人事のように受け止められた。
まわりは、
「思春期の大切な時に心に傷を負った」
と思っているだろうが、早良自身には、そこまでの感覚はなかった。
むしろ他人事のように思うこともできて、その頃から、感情を表に出すことをコントロールできるようになっていた。
相手に悟られないように、自分の気持ちを封印しているように見せることができた。
実際に封印しているわけではないが、まわりからは、
「気持ちを封印させちゃったんだ」
と思わせるに十分なイメージを植え付けることができるようになっていた。
早良は、
――俺がこんな風になれたのも、どこかで誰かに出会ったかならなんだが、それが誰だったのか覚えていないんだよな――
と思っていた。
思い出せないことが、早良にとって、些細なトラウマとなっていた。大きなトラウマとは違うが、些細なことなだけに、その粘着性は大きく、粘着性があるがゆえに、自分への影響力は抜群だった。
道化師を見たという記憶を、ある日突然思い出した。
きっかけがあったとすれば、ちょうどその時、小さかった頃に幼稚園の先生の家に遊びに行った時のことを、本当に久しぶりに思い出していたことかも知れない。
しかもその時、
「今日は、今までに思い出せなかったことを、もう一つ思い出せそうな気がするんだよな」
という思いも一緒に抱いていた。
――子供って、どうして記憶を封印させようとするんだろう?
後から思い出して懐かしく感じることも多いが、二度と思い出したくないという思い出もたくさんあったように思う。内容は思い出せないから思い出したくないことだって感じるのだろうが、一度思い出してしまうと、どんなことでも懐かしいと感じることになるのだろう。
もし、それがトラウマであっても早良には懐かしさが伴っていれば、それはそれでいいことだと思うようになった。
小学生の頃に見た道化師は、
「暗い顔をしていたんだ」
と思うようになっていた。
記憶の中の道化師が、本当に自分が見た道化師なのかと疑いたくなってしまうほど、自分の意識の中に、道化師の表情から、その心境を伺うことはできなかったはずだ。