異時間同一次元
そういえば、納屋の中で、開いている扉の手前に誰かの顔が自分を覗き込んでいた。完全に逆光になっていたので、それが誰の顔なのかハッキリとはしていない。
「あれは先生だったんだろうか?」
先生の家に遊びに行ったのは早良一人ではなかったので、先生だったという証拠はないが、先生以外には考えられないという思いがあり、その時に先生の顔を確認できなかったことが、今となって先生の顔を思い出せない最大の理由ではないかと思うのは、乱暴なことではないだろう。
さらにその日、何もなければ先生の家に遊びに行ったという意識も、後から思い出すほどのものではなかったはずだ。
「忘れてしまいたくない」
という思いが心のどこかにあったから、忘れることがなかったに違いない。
そう思うと何を忘れてしまいたくないのかを考えてみたが、やはりそれは先生の顔だったのではないかと思えた。それなのに思い出せないということは、忘れたくないという思いよりの強い何か、たとえば、
「覚えておきたくはない」
と思わせる何かがあったのだと考えると、理屈には合っているだろう。
早良は、納屋を見ると、血の臭いを思い出すのだった。鉄分を含んだ臭いが充満していて、充満しているにも関わらず、意識しているのは自分だけ。つまり血の臭いを嗅いだのは自分だけであり、他の人に分からないようなケガをしていたのかも知れない。
早良は、その日の記憶を本当になくしていた。
「忘れてしまいたい」
という意識があったから忘れたわけではない。本当に忘れる理由があったからだ。
「あの日、お前はケガをして、救急車で運ばれたんだ」
と、後になって友達に教えてもらった。
その友達はその日、一緒に先生の家に遊びに行っていた友達だったが、どうやら、彼の親からその日のことは、
「絶対に誰にも言ってはダメよ。特に早良君にはね」
と言われていた。
「どうしてなの?」
と聞くと、
「誰にでも触れられたくない過去というものがあるのよ。後になって蒸し返すことなんかないわ」
と言われた。
どうやら、早良の両親から、口止めの圧力が掛かっていたようだ。それを思うと、その日ケガをしたのは、早良の両親に無関係ではないように思えた。まさか先生に頼んでケガをさせてくれなどと言われるわけはない。ただ、ケガをしたことで何かを忘れる要素になったのだとすれば、そこに両親の何かの思惑が見え隠れしているんだとすれば、早良にとっても忌わしい過去以外の何物でもないだろう。
その時の早良の両親は、早良に何かを忘れてほしいという意識があったようだ。まさかケガをすることを望んでいたいたわけではないだろうが、心の奥に住んでいる悪魔が顔を出していたことは確かなことだったのだろう。
そのことを誰も知らない。両親もきっと、
「この思いは墓場まで持って行こう」
と思っているはずだ。
まさか、息子が何となくだが、気付いているなど、想像もしていないだろう。
しかも皮肉なことに、先生の家での納屋での事件がなければ、両親への不信感も、
「忘れてしまいたい」
と思うこともなかったはずだ。
その思いが早良に事実を封印させ、封印が解けるとその時には、両親の思いと、自分たちの甘さが露呈してしまうことを知る由もなかった。
「俺はあの時、何かを見たような気がする」
何を見たのか、想像もつかなかった。
きっと、両親の思惑が何であったのかを知るよりの、その時何を見たのかを思い出す方が困難ではないかと早良は思っていた。
しかし、実際にはその時に何を見たのかを思い出す方が難しくはなかった。ただ、それを思い出すことで、その時の全貌を思い出すためには、二重、三重に張り巡らされた難関を解き放たなければいけないことになるというのを、まったく知らなかったのだ。
そういう意味では両親の思惑から考えてみる方が、全貌を解き明かすという意味では簡単だっただろう。
また思い出すという意味でもそっちの方が簡単のはずだった。しかし、それをしようと思わなかったのは、両親への思いであり、それは決して配慮や遠慮というありきたりなものではなかった。
早良は両親に対していい思いを抱いていない。それは、小泉も同じであったが、その根っこは小泉よりも深かったことだろう。
早良が、
「忘れてしまいたい」
「覚えていたくない」
という思いをそれぞれ抱いたのは、そんな複雑な両親への思いがあったからだ。
だが、それぞれをうまく使い分けるほど自分のことを理解できているわけではない早良は、
「どうしても覚えられない」
という思いが頭の中にあり、忘れてしまいたいという意識よりも、覚えていたくないという意識の方が強いのだということは自覚していた。
先生の家で感じた鉄分を含んだ血の臭い、交通事故で感じた臭いと一緒になり、
「血の色って、どす黒いものなんだ」
と感じるようになった。
その思いがモノクロの方がより気色悪さと恐怖を煽るのだと感じさせる要因となったのだ。
ただあの時の記憶は自分のケガが原因だったのだ。友達数人と先生の家に遊びに行って、納屋で遊んでいた記憶はあった。その時の記憶としてハッキリと分かっているのは、
「何て急な階段なんだ」
という感覚だった。
昔の木造家屋などは、今の時代では考えられないほど階段が急だったりすると聞いたことがある。どうしても限られた建物の中で場所を取らずに階段を作るには、急な設計が必要だったのだろう。
昔の階段は、今の階段のように、途中で曲がっていたり、折り返したりしておらず、一つ上の階まで一直線に伸びている構造になっている。そのために急になっているのは仕方がないのだろうが、その時の納屋は、さらに急だったのだ。
友達が先に立って、納屋の階段を上っていく。それを後ろから追いかけるように昇っていくのが早良だったのだが、やはり最初というのは度胸がいるもので、幼稚園生の中でもリーダー格の少年が一番先頭を上り始めた。
彼が最初に昇ることに対して、誰も異論はなかった。
もっとも、その時に誰が先頭であっても、文句は出なかったような気がする。少なくとも早良には誰が先頭でも文句はなかった。もし、誰も先頭を名乗り出なければ、自分が最初でもいいと思ったくらいだった。
普段なら、決して先頭など行きたくないと思うはずなのに、その時の早良には何か開き直りのようなものがあったのかも知れない。
最初に昇り出した人が、当然のことながら最初に一番上まで着いた。そして次々と到着しているのを見ると、
――最後というのは、失敗だったかも知れないな――
と感じた。
最後まで力を使わなければいけないことを後悔していたのだ。
その時、ふと早良は下を向いてしまった。
「うわっ」
思わず声を立ててしまった。
「こんなにまで高いところに昇ってきたのか」
思わず目がくらむのを感じた。
上ではすでに到着した連中は、まだ階段の途中にいる早良のことなど、誰も気にしている人はいなかった。
その意識は早良にはあった。
――俺だけが宙ぶらりんなんだ――
と思うと、急に指先が痺れてくるのを感じた。
頬に冷たい風を感じて、スーッと力が抜けていた。