異時間同一次元
小泉が最初に書いたのっぺらぼうをデザインにした小説。まるで子供の作文と言われても仕方のないものだったが、それでも書けるようになったのは嬉しいことだった。
小泉は、いつものっぺらぼうのことを考えながら小説を書いている自分に気付いた。
第二作目の題材に選んだシチュエーションの舞台は天橋立だった。
天橋立で例の股覗きをした時の心境と、恋愛を搦めた小説だったが、自分が絵画を目指そうとした時にイメージした天橋立が浮かんできた。
実際に見たわけでもない。当然股の間から見たわけでもない竜が天に昇って行くという姿を、いかにも見てきたように描く自分は、
「罪悪感を感じないようにするにはどうすればいいか」
ということを考えた時、
「そうだ、のっぺらぼうになったような気分でいればいいんだ」
と感じた。
目も鼻も口もない。それはまるで罰ゲームのようではあったが、表情がないということは感情を表に出さなくてもいいということだった。
相手に自分の感情を悟られないということはいいことばかりではない。本当に分かってほしいと思っていることがある場合、相手にその感情が表情として伝わらない以上、何をどういえばいいのか分からない。相手は無表情で訴えられても気持ち悪いだけに違いないからだ。
自分が相手の立場でも同じである。のっぺらぼうというものに対して、小泉は気持ち悪いという感情以外何も浮かんでこない。それでものっぺらぼうを描きたい。
「小説というものは、自分のうちに秘めた気持ちを表にいかに出すかということだ」
ということを感じていながら、自分にのっぺらぼうを置き換えることを否定しない気持ちになっているはずなのだ。
「だからこそ描きたいのか?」
内に籠めておくだけでは気持ち悪いだけ、表に出すことで気持ちのありかを確かめようという思いが衝動として小泉の中にあったのかも知れない。
小泉にとってのっぺらぼうを小説に書くことは、自分の中の恐怖を表に出すことのように思えていた。
「俺は心の中に、たくさんの恐怖を秘めている」
と思っている。
ただ、その恐怖は怖いというだけではなく興味をそそるものでもあった。
「怖いものほど面白い」
と言っていた人がいたが、確かあれは漫画家ではなかったか。
子供の頃ほど恐怖に興味を抱くものらしいが、小泉の場合は逆だった。子供の頃は、
「怖いものは怖い」
とハッキリしていて、それ以上でもそれ以下でもなかった。
しかし、中学から高校に掛けての小説を書けるようになるあたりから、怖いものにも興味を示すようになった。それはそれまで怖いと思っていたことを客観的に見ることができるようになったからで、怖いものすべてが自分に災いをもたらすわけではないと思えるようになったからかも知れない。
クラスメイトの中には、明らかに怖がりなのに、恐怖映画を観てきたりしている人もいた。最初はどういう心境なのか想像もつかなかったが、自分に災いをもたらすものでなければ何も怖くないと考えているのだとすれば、行動が理解できるというものだ。
だが、小泉が考えているような客観的な見方をしているのだろうか?
考え方も感じ方も人それぞれ、特に相手の心境を思い図ることのできないと思っていることなどは、すべてが想像の域を出ないと思っている。いくら想像してもその外に相手がいるのであれば、その姿を見ることすらできないだろう。
人の姿が見えないと思うのは、相手を客観的に自分が見ているからというよりも、自分の想像の外に相手がいると考える方が普通である。そうは思っても、自分の主導で客観的に人を見ていると思いたいのは、心のどこかで人間を信じているからなのであろうか?
小泉は、基本的に自分は人を信用していないと思っている。友達ができないのも自分がそう思っているのだから、まわりも自分に対して同じことを考えていて不思議はないと感じているからだ。
「他人を見ていると自分を写しているようだ」
と考えたこともあったが、果たしてそうなのか、
「まるで鏡だと思えばいいんだ」
と思うと、鏡が本当に写し出した人を正直に表しているものなのか、誰も疑問に感じないのを不思議に思った。
小泉は鏡をあまり見ることはなかった。
「まるで女の子のようだ」
と、鏡に見とれている自分を想像すると、恥かしく思うからだった。
だが実際にはそれ以上に鏡を見るのが怖かった。その理由は、
「鏡というものが、本当の自分しか映し出さないからだ」
と感じたからだった。
小さい頃は、鏡に写った自分が怖かった。
「これが僕の顔なのか?」
もっと野性味を感じさせる男だと思っていたが、そこに写っていたのはお坊ちゃまと言われても仕方のないくらいの顔立ちで、下手をすれば、女の子に間違えられそうにも感じられた。
特に小さい頃は、おかっぱの髪型にさせられていたので、がたいが大きければまだマシだったのだろうが、小柄な上に華奢な身体つきでは、どう見ても女の子に間違えられても無理もないと思えたほどだった。
何よりも鏡を見た自分が最初に、
「まるで女の子みたいじゃないか」
と思ってしまったことが致命的だった。
最初に感じてしまうと、その思いを払拭させるにはかなりの時間と労力を要する。
小さい頃は母親が怖かった。父親に対して怖さを感じないかわりに母親がうるさかったからだ。
ちょっとしたことで文句をいう。それは子供にだけではなく、自分のまわりにいる人に対して、誰にでも文句を言っているような人だった。
大人になって思うと、裏表のない潔い性格にも思えるのだが、子供の頃にはそんなことは分からない。ただ、誰にでも文句を言わないと気が済まない性格にしか見えなかったのだ。
小泉はその頃から、のっぺらぼうというものを無意識の中で意識していたのかも知れない。
のっぺらぼうということを意識することなど、人生のうちにそう何度もあるわけではない。子供の頃に意識することはあっても、大人になって意識するとすれば、それは自分が恐怖というものに包まれている時、その存在を意識するわけではなく、のっぺらぼうというものを意識しているわけではないのに、想像するものがのっぺらぼうそのものを感じているということになるのだ。
それが鏡を見ることへの恐怖に繋がっていた。
小さい頃、初めてのっぺらぼうというものが、妖怪として存在すると聞かされた時に感じたのは、
――鏡を見て、そこに写っている自分の目と鼻と耳がなかったらどうしよう――
というものだった。
だが、そこに大きな矛盾が隠れていることを小さな子供ながらに意識していた。
「目がないのに、どうして鏡が見えるんだ?」
という思いである。
少なくとも目はあるはずである。だから、鏡を見てそこに写っている自分の目がないことだけはありえない。そう思うと、鼻も口も耳も、絶対にあるはずであった。なぜなら、目だけあって他がない姿など、想像もつかなかったからだ。
だが、逆に目も鼻も口も耳もない姿は想像することができる。童話に出てきた話を読んでもらっただけなので、実際にそんな姿を見たわけでもないのに、想像だけができるというのは、実に気持ち悪いものだった。