異時間同一次元
「笑顔なんて、俺は一度もしたことない」
と思ったが、それは自分が笑顔を作ろうとすると、すぐに顔面が引きつってくるのを自覚していたからだ。
逆に言えば、
「顔面が引きつった時は、無理して笑顔を作っている時に他ならない」
この頃まで小泉は自分が感じている本能のようなものは、誰もが持っていて、同じ感情でなければ発生しないものだと思っていた。
――笑顔なんて――
小泉は作られた笑顔が大嫌いだった。
家族団らんの様子をテレビドラマなどで見ていたが、
――こんなのウソでしかないんだ――
と、心の中で呟き、自分の家族を今さらながらに思い出している自分に苛立ちを覚えていた。
――思い出したくもないはずなのに――
という思いは、絶えず付き纏った。
絵を見ながらの笑顔を思い出していると、急に気持ち悪く感じられた。すると、さっきまで感じていたものが、
――本当に笑顔だったのか?
と感じるようになり、それが横顔であることから、小泉は自分が勘違いをしていたのではないかと思うようになった。
「あれは笑顔なんかじゃない。もっと別のもの、そう、恐怖を含んだ表情が引きつっていただけなんじゃないか?」
と感じた。
笑顔と恐怖とでは正反対ではないか。そう思うと、横顔に感じたイメージは、最初に感じたことで思いこんでしまったが、実際にはまったく違った感情だったのだと気付いたにも関わらず、
「もう一度あの表情を見たとして、最初から恐怖の表情だって感じることができるんだろうか?」
と思えた。
再度、笑顔のように思えるのではないだろうか。そう感じてくると、小泉は自分の第一印象は、
「ひょっとすると、的を得ているものなのかも知れない」
と感じられた。
そして、的を得ているが、完全に捉えることのできない感覚は、
「逆も真なり」
で、違和感を持った時には、まったくの正反対を思い浮かべればいいのかも知れないと感じた。
そのうちに小泉はミステリー小説を読んでいるうちに、小説を書いてみたいと思うようになり、実際に書いてみるとなかなか難しく、書けるようになるまでかなりの時間が掛かった。
ただ、絵画や音楽のように途中でやめたりしなかったのは、小説を書くということが自分に合っていると思ったのか、書いてみたいという願望が他の芸術に対してよりも明らかに強かった。
小泉は東北旅行を思い出し、雪原の小説を書いてみたくなった。その時に一緒に思い出したのが、遠野という街に寄った時に聞いた民話だった。
まるで日本昔話に出てくる話のようで、怪奇小説なのだろうが、子供向けとしても描かれているという一種異様な雰囲気の話である。
確かにアニメ作品の中には妖怪が出てくる怪奇作品もあるが、基本的には怖がりの小泉には向かない小説だと思っていた。
だが、雪国の光景をイメージしていると、どうしても浮かんでくるのは怪奇な発想であり、雪女であったり、雪男であったりするのだが、雪国には関係のない妖怪も頭の中に浮かんできた。
その中のイメージとして印象的だったのが、
「のっぺらぼう」
であった。
のっぺらぼうというと、身体は普通の人間と変わりはないのだが、顔にはまるで白い覆面を被ったかのように何もない。
ただ印象として、鼻や口、そして目のある場所には窪みや膨らみがあり、そこにそこに目や口や鼻が存在しているかのように思わせた。
それはきっと白い覆面をしているという想像の元があるから、そう感じるのかも知れない。勝手なイメージが作り上げた想像は、人から与えられる印象に比べて実は大きなもので、余計に恐怖を煽られるのだった。のっぺらぼうの不気味さは、顔がないことだというよりも、
「そこに顔があっても不思議はない」
という状態なのに、顔がないことではないだろうか。
のっぺらぼうの話というと、本当は雪国とは関係なく、明治時代に書かれた小泉八雲によって書かれた小説の中に描かれているものが印象的だ。
このお話は、「むじな」と呼ばれる小説なのだが、この小説には特徴的なところがいくつかあった。
このお話は、一人の商人が誰も通る人のいないような寂しい場所を通りかかると、一人の若い女性がうずくまってしゃがみこんでいた。
「どうしましたか?」
と問いかけると、後ろ向きでしゃがみこんでいた女性がこちらを振り向くと、そこには目も鼻も口もない顔がこちらを見ている。
驚いた商人がその場から一目散で逃げ出す。
すると近くにあった屋台の蕎麦屋に駆け込むのだが、そこで商人は、その蕎麦屋の店主に、
「どうしましたか?」
と後ろ向きに聞かれる。
息も絶え絶えの商人は、今見た化け物の話をするのだが、蕎麦屋は驚くこともなく商人の方へと振り返り、
「こんな顔ですかい?」
と言うと、蕎麦屋も目と鼻と口の内のっぺらぼうだった。
商人は気を失ったことで、蕎麦屋は消え失せた。
結局はすべてはむじなが変身した姿だったということだが、いわゆる、
「キツネに化かされた」
というのと同じ発想であろう。
なぜ、彼が驚かされなければいけなかったのかなど疑問は残るが、恐怖を煽るには十分な作品だ。
特に蕎麦屋によるダメ押しはオチを数倍の効果にしている。このように二度にわたって人を驚かせる階段として、
「再度の怪」
と呼ばれているらしいが、風貌と合わせて恐怖を煽るには効果は十分であろう・
小泉は、自分が、
「いつかのっぺらぼうに出会うのではないか」
と感じていたようだ。
出会いたいと思っているわけではないが、出会った時の覚悟くらいはしておかなければいけないと思っていた。
小泉が今までいろいろな芸術を取得したいと思ってきたが、その都度頭に思い描いていたのは、こののっぺらぼうだった。
「もし、俺がのっぺらぼうだったら、芸術をこなすことくらいは難しいことではないかも知れない」
と思っていた。
それだけ、のっぺらぼうを意識していて、のっぺらぼうへの恐怖から、その力を未知のものとして感じないわけにはいかないと思っていた。
小学生の頃に初めてのっぺらぼうという言葉を聞いた時は、さほど怖いものだとは思っていなかった。
しかし、そのうちに頭の中に残ってしまっていることを意識していると、思い出すのが怖いと思うようになり、
「意識を封印したいと思うこともあるんだな」
と感じるようになっていた。
しかし、ひとたび思い出して見ると、
「これこそ、書きたいと思っていたことなのかも知れない」
と感じた。
音楽も、絵画にしても、
「奏でたい」
であったり、
「描きたい」
というものが厳密にあったわけではない。
それを思うと、ハッキリと書きたいと思っているものがある小説は、書けるようになったというのも必然であると言えるのではないだろうか。
音楽にしても絵画にしても、目の前のものを忠実に反映させることしか思い浮かばない小泉には、
「俺には向かない」
と思わせるものだった。
しかし、小説には発想することにより、いくらでもアレンジができ、書きたいものが何なのかを模索することができる。いくらでも無限に可能性がある限り、伸びしろはあるのだ。