異時間同一次元
だが、小泉がこの時、股の間から景色を見てみようと感じたのは、本当に自然な偶然であり、偶発的なことだったのだろうか?
小泉には何か別の力が働いていたように思えてならない。それが何の力なのか分からないが、その時に初めて感じた力ではなかったような気がした。
「見えない力って、存在するものなんだよな」
と、小泉は時々感じ、自分に言い聞かせていたような気がしていた。
股の間から見た景色は、小泉の考えていたものとは少し違っていた。
――こんなにも、空が広いなんて――
空が広いものだということは普段から感じていて、普通に見ていて陸地や山とのバランスから考えても、
「空って小さすぎる気がするんだよな」
と感じていた。
実際に普通に見てみると、空の割合としては、半分以下くらいにしか感じなかった。
もちろん、山があるからそう感じるのであるが、山がない平野部であったとしても、目の前に広がっている大地と空の割合は、ちょうど半分ずつくらいに感じられることであろう。
だが、股の間から覗いてみればどうだろう。下の方に広がっているだけだと思っていたそらが、その大部分を占めていて、ほとんどが空に感じられるではないか。これはもはや半分どころの騒ぎではない。ほとんどが空に見えると言っても過言ではないだろう。
しかも、最初に感じた空と山の距離は、明らかに空が遠くに感じられ、立体感など感じているはずはないと思っているにも関わらず、距離感だけは持てているのが実に不思議なことだった。
だがそれはずっと続いたことではない。その不思議な感覚は最初だけで、同じ時に二度目に見た時には、すでにその感覚はなくなっていた。
「不思議な感覚だ」
という思いだけを残したまま、イメージだけが残っていて、理屈が消えていた。
そんな不思議な感覚は、その時が後にも先にも最後だったのだ。
小泉は、股の間から覗いた景色を見て、
「やっぱり、俺には絵画はできないんだ」
と、改めて感じた。
こんな発見をしながら、自分の中で目の前の光景を直視して、素直に描ける自信がなかったからだ。
ある作家がテレビで話していたのを思い出した。
「絵というのは、目の前にあるものを忠実に描くだけではいけないんだ。時として必要の内と思うことは大胆に省略するくらいの気持ちがないといけない」
と言っていた、
聞いた時は、
「何を言っているんだ、こいつ」
と思ったが、なぜかその言葉が頭の中に残っていた。
そして実際に自分が絵を描いている時、この人の言葉が頭に浮かんできては、我に返る自分を思い出す。
我に返るということは、キャンバスに向かっている自分は普段の自分ではなく、何かを考えていることの証明だった。
確かに小泉は、絶えず何かを考えている少年だったが、すぐに我に返ってしまい、
「今、俺は一体何を考えていたんだろう?」
と感じることが多かった。
我に返る前の自分が何かを考えていたのは分かっているのに、それが何だったのか、たった今のことでも覚えていない。そんな自分に小泉は腹が立っていた。
絵を描きながら、何かを省略しようという思いに駆られていたのだということに気が付いたのは、股の間から見た景色を思い出すようになってからのことだった。
股の間から見えた景色は、普段見ているけしきとはまったく違っていた。目の前に広がっている景色の一つ一つに変わりはないが、そのバランスに関してはまったく違っていたのだ。
位置関係は間違いないのだろうが、場所が違っていることでバランスが崩れている。その証拠が、あまりにもだだっ広く感じられた青い空だった。
青い空は、無駄にさえ感じられるほど広かった。どうして逆さから見るという発想を思いつかなかったのかということが、無駄に広い空を見て、分かった気がする。
自分の中で、
「無駄なものを見たくない」
という思いが小泉に青い空を必要以上に無駄に見せたくなかったのだろう。
ということは、小泉の中で、
――青い空が無駄に見える時があるということを知っていたのではないか――
という疑念が感じられた。
あくまでも疑念であるので、確証があるわけではない。それでも見てしまったことで感じた違和感が、見たくないと思わせていた違和感とは違っているように思えてならなかった。
なぜなら、逆さまから見た空と山の間には、今までに感じたことのない距離感があったからだ。
距離感を感じたことなどなかったはずなのに、それを感じたということは、今まで心の中に違和感を持っていながら、その正体がハッキリとしないことから、ずっと慣れてしまっていた空と山との距離感を普通のものだとしか見えていなかったのだろう。
小泉は、股の間から見たことで、この距離感というものを無意識にイメージしていたということ、そして今まで慣れで見ていたという感覚を思い知らされたことで、絵画への興味がまた復活してきたと思った。
だが、超えられないものは超えることができないというものだ。再度、距離感への違和感が小泉を袋小路に陥れる。思い知らされるということは、元々感じていたことが妄想のように思っていたのに、再度何かのきっかけで感じさせられると、違った感じ方が芽生えてくる。その状態を、
「思い知らされる」
というのではないだろうか。
小泉は絵を描きながら何かをいつも考えていた。そして気が付けば、自分が描いている絵が描きたいものとは違っていることに気付かされるのだった。
そんな感覚を何度か味わったことで、小泉は絵を描くことを断念した。音楽の場合は結構早く諦めがついたのだが、絵画に関しては、なかなか諦めがつかなかった。それは絵を描いている時に絶えず何かを考えていたからで、そんな自分を小泉はいじらしい思いで見ていたようだ。
小泉が絵を諦めたのは、絵を描こうと思い始めてから一年が経っていた。その頃には小説にも興味を持っていて、最初は絵画の方に興味があったが、どのあたりかで、その興味が逆転していたようだ。ただ、小説を書こうと思ったのは、絵画を志す気持ちがあったからで、もしその気持ちがなければ、小説を書きたいなどと思うこともなかったに違いないだろう。
小泉がもう一度、
「絵を描いてみたい」
と思うようになったのは大学に入ってからだった。
大学に入ると、小説だけを書いている自分がもったいなく感じられた。一度諦めたとはいえ、もう一度絵画をやってみたいと感じたのは、早良と出会ったからなのかも知れない。
早良は別に絵画に造詣が深いというわけではないが、絵を見ている時の彼の横顔には何か引きこまれるものがあった。その横顔を見ていると、子供の頃に感じた股の間から見えた光景を思い出していた。
そう思うと、早良の横顔は、本当はまったくの無駄ではないかと思えてきた。早良が見ている絵に対して、どのような感情を持っているのか計り知ることはできないが、彼の横顔は途中から笑顔に変わっている。
――真剣に絵を見ていたと思っているのに、この笑顔は何なんだ?
と小泉は感じた。
自分ならあんな笑顔ができるはずはないと思っているし、動かない芸術作品である絵画のどこに、笑顔の要素が含まれているというのだろう?