小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

異時間同一次元

INDEX|13ページ/28ページ|

次のページ前のページ
 

 と言っている人がいた。
「知っていたのか?」
 と聞くと、
「ああ、上下逆さまに見て、まったく違ったものに見えるという、いわゆる人間の感性が及ぼす心理的な錯覚だよな」
 と言われて、
「人間の感性?」
「ああ、人間には感性というものがあるのさ。感性があるから錯覚も引き起こすんだって俺は思うんだ。もちろん本能からの錯覚もあるんだろうが、それは矛盾しているような気がするので、俺の考えとしては錯覚はやはり感性から生まれるものではないかって思っているんだ」
 彼の話には興味があった。
 その話をしたのは、中学の頃だったか、高校に入ってからだったのか覚えていないが、彼とはあまり長い間一緒にいなかったような気がする。途中で転校してきて、またすぐに転校していったように思ったからだ。小泉にとって彼は風のように現れて、風のように去って行ったという存在で、
「本当に存在していたんだろうか?」
 とさえ、感じさせるほどの人だったのだ。
――顔すら忘れかけているような気がするな――
 と感じたほどだった。
 小泉は、本当に人の顔を覚えるのが苦手だった。本人は覚えているつもりでいても、すぐに忘れてしまう。それは覚えているつもりなのだが、他の人の顔を見るとその印象が残ってしまい、一回前であっても、記憶にとどまっていない人の顔は、覚えることができないのだ。
 もちろん、何度か見ていれば覚えてしまう。それは他の人と同じことなのだが、一見しただけではどうしても覚えられない。どうしてなのかを考えたが、子供の頃に考えていたのは、
「両手で同じことしかできないのと同じだ」
 という思いだった。
 一言で言えば、
「不器用だ」
 ということなのだろうが、
「どのように不器用なのか説明しろ」
 と言われると、
「両手で同じことしかできないのと同じだ」
 と答えるに違いない。
――こんなところで音楽と重なってくるなんて――
 と小泉は思ったことだろう。そのことを誰にも話しはしていないが、同じように人の顔を覚えられない人で、自分と同じようなことを感じている人はきっといると小泉は感じていた。
 根拠があるわけではないが、
――いてほしい――
 という願望はある。
 だが、願望というよりも、
――いるべきなんだ――
 という思いの方に傾いてきているように思えるのだが、それはどうしてなんだろう?
 願望が断定に変わる時というのは、小泉の中で今までにも結構あった。特にこの時のように人の顔が覚えられないという感覚は、自分だけではないと思えたからだ。
 ただ、ここまでひどいのは珍しい気がしていたので、きっと身近にはいないことは分かっていた。それでもいつか出会える気がしていて、その人と出会えた時、自分がどのように感じるのか想像してみたが、結局できなかった。
「人の顔を覚えられないというのも、結局はバランスが悪いからなんだろうな」
 と自分を顧みていた。
 人の顔は覚えようとして覚えられるものではないと小泉は思っていて、実際に覚えようとしても無理だったことを思い出していた。もちろん、
「覚えないといけない」
 というプレッシャーを自らに与えてしまっているということを百も承知だったので、却って余計な力が入ってしまったと言えなくもなかった。
 それでも、
「与えなければいけないプレッシャーもあるんだ」
 と感じたからこそ与えたもので、元来自分には甘い小泉だったので、余計にプレッシャーは必要なのだと感じていた。
 子供心によくそこまでとは思ったが、自分に与えるプレッシャーというのは、大人になるにつれて次第に緩くなってくる。自分を甘やかすわけではないが、知恵がついてきたことで、自分に対しての妥協が生まれてきたに違いない。
 自分に対しての妥協は、完全に損得勘定に支配されているかのように思えた。
「自分にとって損にはならない」
 と思える部分を認識し、ギリギリのラインまでを妥協で補うことができると思いこんでいる。それが小泉の考え方の真髄にあるのではないかと思うと、妥協が果たしていいことなのか悪いことなのか分からなくなってくる。
 小泉はバランス感覚という言葉を頭に抱いていた。音楽を奏でる際に使用するピアノやギターは、左右の手で別々のことをしなければいけない。小泉にはそれができないので、音楽への才能はないと考え、音楽への道を諦めた。
 また、絵画にしても、最初にどこに筆を落とすかということを考え、全体のバランスが分かっていないことで、絵画も向いていないのではないかと考えていた。
 絵画のバランスで、「サッチャー効果」の話を聞いたり、天橋立のエピソードを思い返してみると、小泉は時々絵を逆さまから見るようにした。
 キャンバスの中の絵を逆さまに見ることで何か見えるのかを探ってみたが、小泉には別のものには見えてこなかった。
 そのうちに、天橋立のエピソードにあった、
「股の間から景色を見る」
 ということを、天橋立でなければしてはいけないわけではないということで、家の近くでやってみることにした。
 ちょうどその頃に住んでいた街は、山もあれば海もあるという、ある意味自然に恵まれた街だった。
 ある晴れた日の夕方近く、学校の帰り道でやってみることにした。なるべく人がいない時間がよかったが、別に見られても気にすることはないと思っていた小泉なので、人に見られることへの違和感はなかった。その頃から小泉は、
「言いたい奴には言わせておけ」
 と感じていて、それが結局開き直りであることにその時はまだ気付いていたわけではなかった。
 股の間から覗いたのは、天橋立だけだった。それは他の人も同じではないだろうか? それを思うと、
――どうして誰もしてみようと思わないのだろう?
 と感じた。
 この思いは単純なものだったのだが、よく考えてみるとそう思わなかったことが不思議だった。
 股の間から見て綺麗なのは確かに天橋立なのだろうが、他の場所から見ても同じことを感じないと、どうしてそう言えるのだろう?
 確かに一人でやると恥かしいと思うだろうし、天橋立のように、竜が天に昇っているように見えるというイメージがあるから天橋立が綺麗なのは誰もが認めることなのだろう。
 だが他の場所で誰も試してみないのはどうしてなのだろうか?
 天橋立というのが有名になったのは、股の間から覗くようになって、それが竜が天に昇っていくように見えたからなのか、それとも、最初から有名で、股の間から覗いてみたのは、
「有名なところを逆さに見るとどうなるか?」
 という一種の興味本位からのことなのかによって変わってくることだろう。
 ずっと小泉も股の間から景色を見てみようなどということを思いついたりしなかった。きっと他の人も同じに違いない。
 そう思うと、天橋立に来た一人の観光客が、その時何を思ったのか、
「その場所で股の間から見たらどうなるか?」
 と、ふと感じただけのことなのかも知れない。
 ただの偶然なのだろうが、その偶然は自然なことであり、偶発的なことで、決して何かの力が働いているわけではないと小泉は思っていた。
作品名:異時間同一次元 作家名:森本晃次