異時間同一次元
読んだ本には、全体のバランスを取るために、最初に全体を四分割してからそれぞれに当て嵌める部分の端から描いていくというようなことが書かれていたので、実際にやってみることにした。
しかし、実際にはそううまくいくわけもなく、最初から挫折したかのように感じていた。
高校生になって漠然と見ていたテレビ番組で、囲碁や将棋の話が出て、
「一番隙のない布陣」
という話が出た時、
「それは最初に並べた状態」
というプロの人の話を聞いて、小泉は目からうろこが落ちた気がしたのだが、その時同時に思い出したのが、絵を描こうとして最初にどこから描き始めようと思ったかというその時のことだった。
「最初で決まると言ってもいいんだろうな」
と考えると、自分が絵を描けるわけもないと思った子供の頃の考えが間違いではなかったということが証明されたような気がした。
絵画をやってみて感じたことは、いくつかあったが、最初はまず、
「バランスが問題だ」
と感じたことだった。
絵を描いていて、最初にキャンバスのどこに筆を落とすかということと絡んでくるのだが、絵を描く時に背景や被写体のバランスが大切であることを痛感した。
それは風景画でも人物画でも同じで、それが絵を描くことの基本であることを示している。絵を描けるようになるには、まず最初にこのバランスを掴むことができなければ、先に進むことができないだろう。
小泉はバランスを考えるのに、まずジグソーパズルで練習してみることを考えた。ジグソーパズルは、パーツすべてを組み立てれば、一つの作品が出来上がる。つまりは、パーツが最終的にバランスを見つけることに繋がると考えたのだ。
ジグソーパズルは思っていたよりも難しかった。
「最初さえ分かれば何とかなるんじゃないか?」
と思っていたが、そんな単純なものではなかった。
なぜなら、ジグソーパズルに最初など存在せず、すべてが最初であり、途中でもあるのだ。たまたま最初に組み合わせた部分がある程度まで完成したとしても、途中で行き詰ってしまっては、最初だと言えないと小泉は考えた。
それでも、
「いやいや、ここまで作っていれば、最初だって言ってもいいんじゃないか?」
という人もいたが、小泉はその人には笑顔で、
「そうかなぁ」
と生半可な返事をしていたが、内心では
――いや、やっぱり自分では納得できない――
と思っているのだった。
ジグソーパズルをいくつまで完成させただろう? いくつか簡単なものを作った気はしたが、納得のいくものができたとは思えなかった。
元々ジグソーパズルは絵画のためにしていることだったので、パズルが完成したことは、それなりの満足感を与えてくれたが、最終的な目標というわけではないので、本当の満足感とは程遠いものだった。
――ここまでできれば、絵画にも生かせるかも知れない――
と感じた。
だが実際に描いてみると、満足のいくものが書けているとは到底思えない。
小泉の描きたい作品がどんなものなのかがハッキリしていないまま描こうと思っていることが間違っているのではないかとも感じたが、描いているうちに描きたいものを見つけられるというのも、また正解なのではないかと思うのだった。
それでも小泉はバランスに関しては少しずつ理解しているように感じた。
「そのうちにバランス感覚も養えて、バランスなんか意識せずに描けるようになるんじゃないか」
と思うようになっていた。
だが、バランスについて忘れていたある日、急に思い出したことがあった。それは学校で見た天橋立のスナップ写真だった。
天橋立という言葉は知っていた。日本三景の一つで、確か日本海側だったような気がする。
「一度は行ってみたいものだよね」
と思ったのも事実で、教科書に載っていた写真を見たことはあった。
その時に見た写真というのは、ちょうど上下逆さまになった写真で、
「これ一体何なんですか?」
と思わず聞いた。
ちょうど横を通りかかった先生が、
「これって、天橋立じゃないか」
と声を掛けた。
「えっ、これが天橋立?」
教科書で見た写真とはかけ離れているようでビックリした。
「そっか、お前の方向からではそう見えても仕方がないよな。でも天橋立というのは、そういうものなんだ。今お前が言ったことが実際に現地で行われているんだぞ」
と言われて、
「えっ、どういうことなんですか?」
「天橋立というのは、絶景スポットがあって、そでは、展望台の上に乗って、股の間から見るというのが通説なんだよ。まったく違った光景になるという意味でね。それも、いくつか見え方があったりして、俺が気に入っている見え方は、天に向かって竜が昇っていくという姿なんだ」
と先生は言った。
「先生は竜が昇るのを見たんですか?」
「それが、俺にはそうは見えなかったんだ。本当は竜が昇っていく姿を見たくて、わざわざ天橋立まで行ったんだけど、残念だった。でも、違う意味でいい光景が見れたので、それはそれで俺には満足できたんだ」
「それはよかったですね」
「でも、お前がここで天橋立の写真を見て、逆さまから見た光景を感じたというのは、偶然としてもすごいことのように思うよな。お前は天橋立の見方を知らなかったんだろう?」
「はい、今日初めて聞きました。天橋立というのが日本三景の一つだということは知っていたんですが、本当に教科書に出てくることくらいしか知りませんでした」
というと、
「そっか、まるで天橋立がお前を引き寄せたかのようじゃないか。この感覚を忘れない方がいいかも知れないな。これからお前が感じることが、今日のこの感覚に影響されることもあるかも知れないからな」
と言われて、
「そうですね。僕もそう思います。でも、不思議ですよね、逆さまから見るとまったく別の形に見えるというのだから、人間が感じる錯覚には何か力のようなものがあるのかも知れないですね」
「これは心理的にも証明されていることなんじゃないかな? このことを専門用語というか通称『サッチャー効果』というらしいんだ。向かい合っている二人の横顔を逆さまから見ると、ラクダに見えたりするというのが一般的な話だからな」
「それは、聞いたことがあります。実際にその絵を見たことがあるような気がしてきました」
実際に見たかどうか、その時はそれほど重要ではなかった。それよりも自分で想像できたことの方が小泉にはビックリすることだったのだ。
小泉はその時から、たまに上下逆さまに見るとどう見えるのかということを思い出しては、実際に股の間から見てみたりした。
「何だよ、それ」
と聞かれて、本当は、
「天橋立だよ」
と言いたかったのだが、わざとはぐらかすように、
「サッチャー効果さ」
と、相手に分からないような表現で答えた。
どうしてそういう回答をしたのかというと、相手にさらなる質問をされて、どう答えていいのか分からなかったからだ。サッチャー効果と言っておけば、とりあえす余計な追及はないと思ったのだ。
ただ、中にはサッチャー効果の意味を分かっている人もいたようだ。その時には何も言わなかったが、後になって、
「サッチャー効果って、俺も意識したことがあるんだよ」