短編集64(過去作品)
彼氏とは短大に入学してもしばらくは付き合っていた。
彼は地元の大学に入学し、お互い少し距離を置くようになったが、晴美はそれでも変わりはないつもりだった。
逆に少しくらい距離があった方が新鮮だと思っていたからだ。
高校時代、受験で悩んでいた彼が少しノイローゼ気味になった時、そばに寄るのも辛かった時期があった。
鬱状態になったことのなかった晴美にはその気持ちは分からなかったが、ただ、少し距離を持って、見つめていてあげることしかできない自分がいることも分かっていた。
彼はまわりがまったく見えていなかった。きっと晴美も見えていなかっただろう。口では、
「すまない。鬱状態になると自分が分からなくなるんだ」
と話してくれたが、それも精一杯の気持ちだったに違いない。それが分かったのは短大に入ってからだった。
晴美も短大時代に鬱状態に入り込んだことがあった。理由はこれといってなかったのが不思議だった。彼と別れてから半年経ってから突然襲ってきた鬱状態に、最初はビックリした。
しかし、鬱状態に入り込むと、
――初めてではない感覚がある――
と思うようになった。
鬱状態に入り込む前に、どこか予感めいたものがあった。それも以前に味わったことがあるように思えた。
――初めてのはずなのに――
だからこそ、何をどうしていいのか、どう考えていいのか分からなかった。だが、その気持ちも初めてではない気がする。おかしな感覚だった。
鬱状態に完全に入り込むと、今度は、
――いつかは元に戻る。それをじっと待っていればいいんだわ――
下手に動いたり、考えたりすると余計に抜けるまでに時間が掛かってしまう。こういう時は何も考えず、ただじっとやり過ごすことだけを考えていればいいのだと思うようになっていた。
その考えに間違いはなかった。
気がつけば鬱状態から抜けていて、鬱から抜けると、今度は何をしていても楽しくて仕方がないように思えてくる。
――反動なのかしら――
反動もあっただろうが、案外、それも自分の性格なのかも知れないと感じた。鬱状態があったから表に出てきただけで、潜在的に持っているものだったに違いない。
だが、いつも顔を出しているわけではない。鬱状態とセットでしか表に表れることはない。それからも定期的に訪れる鬱状態が収まる時に、楽しい性格が現れるのだった。
思春期だからだったのかも知れない。
就職してから、しばらくは同じような周期を繰り返していたが、そのうちに鬱状態に陥ることがなくなってきた。かといって、臆病な性格がなくなったわけではない。一過性の性格がなりを潜めていたと言っていいだろう。
思春期というのは、ちょっとしたことにでも何かの原因があると考える。すべて見えているものに理由付けしてしまおうとするところがあった。
見えている範囲が狭いから考えられたことかも知れない。
就職すると、理屈だけでは済まされないことがたくさん出てくる。理不尽なことでも上司の命令には従わなければならないこともある。見えていることを素直に解釈しようとすると、必ずどこかに矛盾が生まれ、自分の中でジレンマに陥ることになるだろう。そのことを就職してからすぐに気付いた晴美だったが、そんな晴美が矛盾を考えずにいられたのは、きっと幸恵さんのおかげだったに違いない。
二年目になると、今度は自分が後輩を教えることになる。
後輩を見ていると、どうしてもじれったくなって、怒鳴りたくなることもある。
――幸恵さんもそうだったのかな――
と思いながら後輩を見ていると、一年前の自分を被せて見てしまう。
――一年前の私とは違うわ――
贔屓目で見ていたからかも知れないが、自分の方がよほど大人だったように思う。教えている後輩は言い訳はするし、こちらが教えたことを素直に守ろうとしない。教えてもらうという姿勢がなっていないのだ。
「幸恵さん、私、後輩の指導に向いていないのかも知れないわ」
幸恵さんに相談してみたこともあった。
「大丈夫よ。あなたはとても素直だったから私はやりやすかったけど、あなたにも信念があるでしょう。それを貫けばいいのよ」
目からウロコが落ちたとはこのことか、後輩への指導で、妥協を許さない自分を再確認した。
自分が受けた幸恵さんからの指導も、自分が指導する立場になれば、その気持ちが分かってくる。要するに相手が誰であっても、やり方を変えるだけで、基本路線に変わりはないのだ。あくまでも気持ちの問題だけである。
そこに個性が生まれてくるだろう。幸恵さんはそのことが言いたかったのだ。晴美を指導したやり方も幸恵さんの個性。幸恵さんを指導した人だって、その人の個性だったに違いない。
――今年は自分が個性を発揮する番だわ――
そう考えると気が楽になった。自分が臆病だということも忘れてしまったかのようである。
幸恵さんいは、付き合っている男性がいることをその時は知らなかった。幸恵さんくらいしっかりした女性になると、きっと相手の男性もしっかりしているのだろうと思ったが、話を聞いてみるとそうでもないようだ。
「甘えたがり屋さんなのね」
行きつけの喫茶店で、初めて聞かされた付き合っている男性の話。付き合っている男性がいるという話は、本人からではなく、まわりから聞かされた話だった。晴美は性格上、本人から話しはじめたことでなければ自分から話題にすることはなかった。
「妥協を許さない性格の幸恵さんの彼氏が甘えたがり屋さんだなんて、ちょっと意外ですね」
仕事場と仕事を離れてからの幸恵さんの表情は明らかに違う。会社では決して言えないようなタメ口を叩けるのも、それだけ表情が違うからであろう。だが、人には超えてはならない境界線があるのだと思う。自分の中にある妥協という境界線は、仕事であってもお、仕事を離れても持ち続けるものだと晴美は思っていた。
「そんなに意外かしら? 私は二重人格じゃないのよ。もっとも女性が会社での立場を築くためには毅然とした態度を表に出さないといけないので、結構誤解も多いのかも知れないわね」
「誤解というのは違うかも知れませんよ。それぞれに自分の中で割り切って仕事をしているんでしょうからね」
「そうよね。たまにまわりの人からどう思われているのか不安になることがあったのよ。でも、すぐに仕事だと割り切ってしまうから、気持ちを引きずることはないんだけど、自問自答を繰り返していることも多いわね」
「気にしない方がいいですよ」
幸恵さんにアドバイスできる自分に酔ってしまいそうだった。時々ナルシズムに浸ることがある晴美は、
――この性格が後輩の指導にも役立っているのかも知れないわ――
いい悪いは別にして、臆することなく指導できることはありがたかった。
幸恵さんの話を聞いていると、彼氏はマザコンの雰囲気があるようだ。
「最初はね。誠実で従順な人だと思ったのよ。本当はグイグイ引っ張って行ってくれる人が好きなんだけど、その人に対しては、自分がしっかりしなければって思ったのよね。今までと違ってそれが却って新鮮だったのかも知れないわ」
そう言って、苦笑いをしている幸恵さんに対して、少し悪戯心が湧いてきたのか、
作品名:短編集64(過去作品) 作家名:森本晃次