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短編集64(過去作品)

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普通の生活



                 普通の生活


「お疲れ様でした」
 あまり大きな声ではないが、それでも全員がこちらを振り向いてくれるほどの小さな事務所では、振り向いて頭を下げてはくれるが誰も、
「お疲れ様でした」
 という声を掛けてくれることはない。
 就職してから二年が経った。最初はもっと活気のある会社だと思ったのに、どうしたのだろう。半年前に課長が交代してから少しずつ事務所は地味になっていった。
「晴美、明日仕事が終わったら、時間空いてるんでしょう?」
 昨日、前の会社で世話になった幸恵さんから電話があった。
――白鳥幸恵さん――
 彼女は、前の会社では先輩だった。一年先輩ではあったが、気が合うところもあった。いろいろ教えてくれたのは幸恵さんだったし、プライベートな話ができるのも彼女だけだった。
 最初は厳しい人だと思った。妥協を許すことはなく、言い訳は一切通用しない。短大を卒業してすぐだったので、なかなか学生の感覚が抜けていなかった晴美に、幸恵は容赦なかった。
 言葉遣いはもちろん、礼儀作法から、
――これくらいは大丈夫だろう――
 と思えることは確実に指摘されて改善させられた。
「依存心が強いのよ」
 容赦のない言葉が飛んできたこともあった。
「失敗すると思っていたわ」
 最初は、失敗しないように絶えず目を配っていてくれて、それを億劫に思っていたが、億劫な気持ちに慣れてくると、次第に目が離れていく。
――私も一人前に見られるようになったということかな――
 と思っていた矢先の失敗に、
「車の運転もそうでしょう? 慣れた頃にできた心の隙間に入り込むように、事故が多いっていうでしょう? 初心者マークが取れた頃とかね・それと一緒よ」
 失敗といっても、大きなものではない。大きなものなら、必ず幸恵さんが止めてくれたはずだ。
 幸恵さんは、しばらくすると結婚して退職していった。結婚した相手は銀行に勤めているエリートだということだったが、お似合いではないだろうか。
 結婚式にも呼ばれたが、想像していたよりも豪華だった。人の結婚式に出席するのは初めてではなかったが、一番親しい人の結婚式だけあって、感慨も深かった。
「綺麗だわ」
 幸恵さんの晴れ姿も実に綺麗だった。いつも冷静な幸恵さんが、さらに神妙は表情をしている。それでいて、旦那さんになる人を見上げる目も、綺麗に見えた。理想の結婚式を見たような気がした。
 相手の男性の表情は最初から最後まで冷静だった。披露宴ではまわりの同僚が盛り上がっても、決して冷静さを崩さない。結婚式の新郎というのはそんなものなのだろうが、その人に限っては、普段から冷静でいる人であることを感じさせられた。
――こんな人と一緒に暮らすんだ――
 漠然と考えたが、晴美にはイメージが湧いてこなかった。結婚に憧れていた時期はあったが、その頃には憧れの時期は通り越していた。
 元々が臆病な性格の晴美は、一人でいることの不安と、他の人に依存したい気持ちが強いと思っていたが、実際に他人と暮らすとなると臆病になってくる。
 恋愛は学生の頃に数回したことがあった。
 最初、晴美から好きになった男性に、思い切って告白したのが、最初の交際だった。まだ高校生で、
――私にもこんな度胸があるんだ――
 と思ったものだ。
 相手もビックリしていた。
「まさか、坂本さんから告白してくるなんて」
 と言っていたほどで、他の人から見ても、地味で大人しい女の子に見えていたのだ。
「私も自分でビックリしているのよ。なぜなのか、あなたには素直になれそうなの」
 と言ってはみたが、実際にその時素直になれたのは事実だが、素直さがそのまま告白に繋がったとは思えなかった。
 彼はそんな晴美の心意気を感じてか、付き合うようになった。元々晴美は気になる存在だったのだが、そのことは一言も言わなかった。あくまでも晴美が告白してきたことが付き合うきっかけだったことを貫いた。
 一緒にいる時、晴美はじっと彼の後ろにいるタイプだった。
「こんな女の子と結婚すれば、きっといい嫁さんになるだろうな」
 と思っていたようだが、彼以外の人には人見知りしていた。
 元々晴美は友達の少ないタイプで、目立たなかったが、男性と付き合うようになって、さらに他の人との距離を保つようになってしまっていた。
 彼に対しては従順であったが、会話にはなっていた。ため口を叩ける仲でもあったが、それは相手への依存心があるからであろう。
「依存心」という言葉、あまり好きではないが、委ねたい相手には惜しげもなくその芋地を発揮するのが女性だと思っていた。どちらかというと古風な考え方の中にも、甘えたところがあるのは、お嬢様育ちのところがあるからかも知れない。
 本当のお嬢様ではないが、世間知らなところがお嬢様と思われるゆえんである。
 勉強はできる方であるが、あまり遊びに興じることもなく、部活をしていたわけでもないので、友達が少ない理由もそこにあった。
 友達を作ろうとしても、友達同士でどこかに出かけるからと家族に話すと、
「いけません」
 と言われてきた。理由は子供の晴美にはハッキリと分からなかったが、親からすれば、自分たち以外のまわりに迷惑や気を遣わせたりするからだということだった。
 確かにそれも言えることだった。
 だが、自分以外の友達は全員参加するのである。自分だけが参加しなくとも、結局体勢に代わりがあるわけではない。
「皆も行くって言ってるのよ」
 皆が参加するから、自分ひとりがいようがいまいが体勢に影響がないことを訴えているつもりでも、親はそう感じていないものだ。
――娘は言い訳をしているんだ――
 と考えているのが関の山ではないだろうか。もっと言えば、
――まわりはどうあれ、自分さえしっかりしていればいいのよ――
 という考えがあったことは、晴美がずっと大人になって気付いたことだ。
 大人の世界というのがどのようなものか分からなかったが、
――他の人は関係ない。すべて自分の考えが優先する――
 という考えが自分の基礎を築いていることに気付いたのは、母親の無慈悲な考えに触れたからというのも、考えてみれば口惜しい。
 だが、まわりはどうあれ、自分だけという考えは、一見強そうな考えに見えるが、実際は臆病な中での考えでもあった。一種の両刃の剣と言ってもいいだろう。
 人と一緒にいて、自分の考えを押し通そうとしても、なかなかうまく行かないことから人から遠ざかって自分を見つめるようになる。人に自分の考えを分かってもらうことを早々と諦めてしまうからである。
 口で何を言っても言い訳にしかならないことを分かっているところは、自分を見つめる力があるからだろう。だが、それを認めたくない自分がいるのも事実で、臆病だと分かっているだけでも、頭がいい証拠かも知れない。
 認めたくないことは知らない方がいい。
――知らぬが仏――
 という言葉もあるが、知らないからといって、それが万事悪いことだとは限らないだろう。知らないことが功を奏して、気がつけばうまく行っているということもあるはずだ。そういう意味で、臆病な性格である自分が嫌になることもあった。
作品名:短編集64(過去作品) 作家名:森本晃次