短編集64(過去作品)
と、いかにも中学生の女の子のリアクションを示したが、その時に犬が怯えた表情になったのを見逃さなかった。そう思って妹の表情を見ると、確かに怯えが走る顔に一瞬だけだったが見えたのだ。
舌舐めずりをしたような……。まるで今から取って食べようとでもいう表情で、
「おいしそうだわ」
心の声が聞こえてきそうだ。まさか犬を食べたりすることはないだろうが、人間がペットを見る目の奥底に大なり小なり同じような気持ちが宿っていることを、その時坂下は悟った。
――俺もそうなんだろうか――
ペットは飼い主に従順であるのが当たり前だと思っている。ペットの運命は飼い主の一存で決まってしまう。もし飼い主が悪い人だったら、ペットの一生は悲惨なものだ。そんなことを考えていると、夢身が悪そうな気がしていた。
初めて見たペットに対してそこまで感じるなんて、深く読みすぎであった。だが、犬の怯えたような表情、そして妹の今にも食べてしまいそうな表情を見てしまっては、どうにもならない気持ちが宿ってしまう。
犬は、それでも大切に育てられた。妹も結構世話好きなのか、連れて帰ってきた母親よりも熱心に面倒を見ている。夕方の散歩も妹が連れていくようになり、自然と犬も妹になついてくるようになる。
――あれは思い過ごしだったんだ――
と、思うようになってから、急に犬の気持ちが分からなくなってきた。犬が家族の一員として認知され、それを確認したさなかであった。不思議な感覚が坂下を襲った。
坂下も一度、散歩に連れていったことがあった。学校から帰ってきて、
「ごめん、お兄ちゃん。散歩行ってくれる?」
妹から頼まれた。妹が散歩を人に頼むなど今までになかったことだ。
――彼氏でもできたかな?
と感じたが、今までになかったことだけに、
――一度くらいはいいか――
と思い、散歩に連れて行った。
家を出てからしばらく歩いていたが、どうも散歩という雰囲気とは少しイメージが違っていた。確かに犬の散歩は生まれて初めての経験だったが、想像していたのとどこかが違う。
「そうか、分かった」
思わず、声に出てしまったが、理由は犬が自分の前に出てこないことだった。本来犬は散歩の時間になれば嬉しくて、先へ先へと急ぐものである。他に犬の散歩をさせている犬を見ると、マーキングしている時以外は、ほとんど犬が前にいる。犬が人間を引っ張っている感覚である。
そういえば、散歩に行く時もどこか寂しげであった。きっといつも連れて行く妹ではない人間に連れられていくので、不安を感じているのかも知れない。
「大丈夫だよ」
後ろを振り返って声を掛けたが、怯えが明らかに見て取れた。しかもその怯えは飼い主に対して決して見せるものではないのではないかと思わせるものだった。寂しげな表情だったのだ。
坂下は、過去の記憶を思い出していた。
――あの時――
大型トラックとニアミスをしてしまいそうになった瞬間のことである。あの時、犬が必死で声を掛けてくれていたが、坂下はその理由が分からずに無視をしていた。犬からしてみれば、寂しかったに違いない。犬からしてみれば、まったく犬の言葉を分からない人間であれば諦めもつくだろうが、なまじっか少しでも犬の言葉を理解できる坂下が相手だっただけに余計に寂しさがこみ上げてきたことだろう。やるせないイライラした気持ちだったに違いない。
――今日は大丈夫だろうか――
少し不安になってきた。
空を見ると太陽が西の空に傾き始めている。まもなく「夕凪」と呼ばれる魔の時間である。
前の時に比べると、夕凪の時間が短いように思えた。日が沈みかけるのが見えてから、夕凪の時間までがあっという間で、完全に日が沈んでしまうまで、本当に想像よりも早かった。
「そろそろ帰ろう」
声を掛けると、今度は犬が自分よりも前に立ちはだかる。尻尾を振っていて、舌を出している。
――そうか、どうして怯えを感じたのかというと、尻尾を振っていなかったのと、舌を出していなかったことに気付いていたからだ――
感覚では分かっていたのに、怯えの原因がどこにあるのか分からなかったとは、今までの坂下からは考えにくい。やはり、犬への興味が薄れてしまっていた証拠だろう。
それにしても、犬の怯えの原因は、時間帯だったのだ。だが、妹も同じ時間に散歩をさせていたはずだ。妹の時にはちゃんと普通に散歩していたに違いない。少しでもおかしければ、妹が問題にするはずだからである。
そういうことには目敏い妹である。ということは、犬がビクビクしていたのは、坂下とこの時間に散歩に来たからであろう。坂下と夕凪の時間の因縁をこの犬が知るはずはない。家であの日のことを話していたのはこの犬が家に来る前のことだった。それをこの犬が知るはずもない。
――きっと、知らず知らずに俺は忘れているつもりでも、この時間に対してトラウマが湧き出してくるのだろう。そうじゃないと、犬に対して偶然という言葉で片付けられるものはないはずだから――
と考えていた。
サルの言葉が分かるという彼女に、その話まですると、自分にも同じような経験があるということを話してくれた。そのせいで、動物園にしばらく通うはめになってしまって、勉強も手につかない時期があったようだ。それでも成績は良かったこともあって、何とか受験に負けることもなくやってこれた。だが、それもサルのおかげだという。
「私がサルの言葉が分かる時というのは、都合のいい言葉ばかりなんです。都合の悪いことは聞こえない。何とも出来すぎですよね」
そう言って笑っていたが、それは犬に対しての坂下も同じなのかも知れない。
そういえば、坂下も犬の言葉が分かると思っていたのは、自分にとって都合のいいことばかりであった。
――しょせんはペットなんだ――
という意志が働いて、彼女にしてもサルに対して、
――自分よりも下等な動物――
という潜在意識があるのかも知れない。
そうなると、すべてが自分にとって従順に感じ、都合のいいことしか見えなくなる。人間だけに存在する意識なのかも知れないが、同じ種族を奴隷として扱うのは人間だけに限らない。アリの世界、蜂の世界。知っているだけでもいくつあるだろう。元々人間が奴隷を始めたのもひょっとすると、動物の生態を見てなのかも知れない。本来から本能として存在していたとしても、理性だって持っている人間がいきなり本能に任せるまま、奴隷制度を始めたというのも危険な考えだ。太古から存在する奴隷。これが動物の世界から吸収したのだとすれば、太古の昔に動物が喋っていたのではないかという仮説も、まんざらではないかも知れない。
そのことを教えてくれたのが橋爪教授だった。
何度か飲み屋で一緒になっているうちに意気投合し、犬の他の人には話したことのない犬の声を感じた話をした時の教授の輝いた表情。今でも思い出すことができる。
彼女と一緒に行った動物園。それから何度か行ったものだ。半分は彼女と二人で行ったものだが、半分は一人で行った。目的はもちろんサル山であった。
――サルの言葉を聞いてみたい――
作品名:短編集64(過去作品) 作家名:森本晃次