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短編集64(過去作品)

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 職人に見えるだけあって手際のよさには感心してしまう。他に誰も手伝う人がいないので、二人きりになっているだけだが、人がいないのは正月だからだと思う。カウンターの奥を見ると、そこには焼酎のビンが置かれていて、それぞれに名前が書かれている。焼酎のキープといったところだろう。
「日本酒もいろいろな種類を置いているんでしょう?」
「ええ、まあ、私の趣味で集めているというのもありますからね」
 話しかけると、結構話には乗ってくれるようだ。もっともお酒を集めるのが趣味なので、趣味の話に乗ってきただけかも知れない。
「あまり赤提灯に寄ったことがなかったんだけど、こうやって一人で呑むのも、なかなかオツなようですね」
「ここは常連のお客さんが多いので、それでもっているようなものです。常連さんはありがたいですよ」
 常連でもっている店というのは、なかなか長持ちするという話を、会社の上司から聞いたことがある。
 ただ常連でもっているような店というのは、店主が頑固っぽくて、それでいて、一見さんには冷たいというイメージが強い。だが、ここの店にはそんなことはなさそうだ。一見、胡散臭そうに見えるオヤジだが、話してみるとそんなことはない。ちょっと臆病な人なら二度目はないかも知れない。また、気が強い客だと喧嘩にならないとも限らないような風貌だが、人は見かけで判断してはいけないという教訓である。
 初めて一人で呑みに来た。大学時代も就職してからも、必ず誰かと一緒だった。初めての店に一人で入るのは、どうしても勇気がいる。まず、金銭的な面でもそうだが、何を話していいか分からず、結局一言も話さずに店を出る自分を想像すると情けなくなるからであった。
 その時に後から一人の客がやってきた。その客は一見さんではなく、馴染みのようだった。だが、会話が苦手なのか、二人が会話をする雰囲気ではない。
 客はかなりの年配で、白髪に顎には白い髭を蓄えていた。まるでどこかの学者か先生と行ったところだろうか。静かに飲んでいる佇まい、そして何者にも動じそうにないいでたちは、今まで他の人にも感じたことのないものだった。
 腰が少し曲がっているだけに、さらに寂しそうに見える。何者にも動じない雰囲気は、裏を返せば寂しさを含んでいるということなのかも知れない。学生時代の教授にも同じように腰の曲がった先生がいたが、雰囲気はかなり違っていた。
 寂しそうなだけではなく、格式を感じるのは、店で見かけた老人の方だった。あまりジロジロ見ては悪いだろうと思い視線を逸らしていると、
「わしが気になるようじゃな」
 と声を掛けてきた。どうしていいか分からずオヤジを見ると、相変わらず手際よく焼き鳥を焼いている。しかし、すぐにこちらを向き直って、目配せをした。
 その表情に余裕が感じられたので、老人が悪い人間ではないことは分かった。それでも堅物っぽく見えるので、どうしても敬遠してしまいたくなる。
 アルコールの酔いが雰囲気を助けてくれた。
「気になるというわけではないのですが、ここにはよく来られるんですか?」
 まずは差し障りのない会話から入るのが定石である。
「ああ、常連といえば常連かな」
 と言って、オヤジを見ると、二人の間で何らかのアイコンタクトがあり、オヤジの方がにこやかであった。
「君は、初めてのようじゃな?」
「ええ、初めて来たんですが、なかなか落ち着いた店ですね」
「そうだろう。わしもここ一年くらいの常連なんじゃ。ここで他の客に会うこともたまにはあるが、おぬしのような人間と会うのは久しぶりだからな」
「この店は土建屋だったり、自営業の人が多いんですよ。それだけ個性の強い人も多くて、サラリーマンが一人で来ることは、まずないといってもいい」
 オヤジが話してくれた。
 なるほど、確かに奥まったところにある関係で、知っている人でないとなかなか立ち寄ることもないだろう。会社の帰りにフラッと寄ってみるということもまずありえないと言ってもいい。
「私は、これでも大学教授なんだよ。半分、引退はしたようなものだが、自分の後継者を探したいのだが、なかなかいないんだ」
 自分が教授だと名乗ると、今度は言葉が落ち着いてきた。若返ってきたといってもいい。酒場で一人飲んでいる雰囲気が一変し、自分の専門的な話になると目の色が変わって生き生きしてくるのも学者の性なのかも知れない。
「どういう研究をされているんですか?」
「動物の生態系について調べているんだが、私の場合は、犬の研究をしている。君は犬に言葉があると思うかね?」
 いきなりの質問だったが、半分興味のある話でもあった。人類学を好んでいたのだが、動物の生態系や、犬という動物についても、人間とは切っても切り離せない関係にあるのが分かっているからだ。
「いるかが人の言葉が分かるのではないかという話は聞いたことがありますね。そして、いるかにも言葉があるという研究もされているんでしょう?」
「確かにそうだね。だけど、動物全部に言葉があるという考えは極端かも知れないが、それぞれ本能という言葉の裏には、それなりに根拠のあるものが存在していると思っているんだ」
「それが言葉というわけですか?」
「その通り。人間には動物の鳴き声は同じ種類の動物であれば、同じように聞こえるのだけど、動物の身になってみればどうなんだろうね。彼らには本能と呼ばれるものも、当然必要とされる秩序が存在することで、キチンと代々受け継がれて生きてきたんじゃないだろうか。親が子供を教育するのは、人間の世界でも、動物の世界でも同じことだよ」
「人間中心に考えているからでしょうね」
「人間は、自分たちを地球人とは呼ぶが、宇宙人は皆同じものとして人くくりにしている。それと同じ発想が動物の世界に対してもあるから、まるで全然違うもののように見えるんじゃないかな」
「要するに人間中心の考え方だというわけですね」
「そうなんだよ。人間の中にそういう驕りや高ぶりがある限り、人間には絶対理解できないのが動物の世界の秩序であり、言葉なのかも知れない」
 そういって、教授は一口おいしそうに日本酒を喉の奥に流し込んだ。
 それが橋爪教授との出会いだった。
 なぜ坂下が脱サラまでして橋爪教授の下に走ったかというと、今から考えても自分なりに納得もできないでいる。犬に興味もあったし、言葉ということに関して共感できるところもあったが、やはり犬が喋ったという意識を一度でも持ったことがある人間が、橋爪教授と出会うという偶然に魅せられたのかも知れない。
 犬が喋るなど、誰が信じてくれよう。坂下自身にとっても本当に犬が喋ったのか分からない。ただ、その時に誰もいなかったのに、声が聞こえた。それが犬のいる場所からでしか判断できないような内容であったことから感じたことだった。
 あれは、確か中学時代だった。
 友達の家に遊びに行って、帰りが夕方になった。その日はちょうど試験中で、学校は昼に終わっていた。遊びに行ったというよりも勉強しに行ったはずなのだが、結果として遊びに近くなったのは、中学時代はあまり勉強が好きではなかった証拠かも知れない。
作品名:短編集64(過去作品) 作家名:森本晃次