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短編集64(過去作品)

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都合のいい…



                 都合のいい…


 橋爪教授は生物学に関しては世界でもその名が通った人である。坂下はその助手をしているが、彼は元々サラリーマンだった。
 橋爪教授とは、一度呑み屋で一緒になったのが縁で、まさか、脱サラをして研究室に入り込むなど、考えてもいなかった。
 最初、教授も呑み屋では普通のおじさんだった。教授っぽくもなかったし、一人静かに呑んでいた。その日は客もおらず、坂下も少し教授と離れたところで呑んでいた。
 カウンターに両肘をついて、前屈みでお猪口を口に持っていく。その姿は情けなさを含んでいた。だが、よく考えると坂下自身も同じような恰好をしているではないか。思わず、
「ふっ」
 と溜息をついて、一人でほくそ笑んでしまった。その姿に教授は気付いていないようだが、後から思えば何とも恰好の悪いものであろうか。
 年明けの落ち着いた時期だったので、一人ゆっくり呑んでいてもあまり時間の経過を感じさせることはない。年末はさすがに忙しかったが、正月休みも一週間、坂下とすれば十分な休暇だった。
 一週間という期間が長いか短いかは、その人の環境にもよるだろう。一人暮らしの独身ではあるが、田舎も民族大移動に巻き込まれるほど遠くではないので、元旦と二日くらいは実家に帰ったが、それ以外はいつものように一人でいた。
 一人暮らしを始めてから、何度目の正月であろう。大学時代からではあったが、サラリーマンになってからの正月は、学生時代の正月と少し趣きが違う。どちらかというと、サラリーマンになってからの正月の方が、短かった。だが、一日一日を考えると、社会人になってからの方が長い。休みに入る前から、正月になれば旅行にでも行こうと考えていたが、いざ休みになってしまうと、身体を動かすのが億劫になるし、実家に帰るだけでも思ったより移動という感覚が強い。実家から帰ってきてから三日間ほどは、じっとしていることが多かった。
 特に初出勤の前の日は憂鬱である。最初から分かっていたことだけに、テレビを見ていても前日までとは打って変わって、上の空である。翌日から仕事だと思うだけでこれほど億劫になるというのは、それだけ年末が忙しかったという証拠でもある。
 生活のリズムというのは、あまり急激に変わると、修正が難しいことがある。正月はまさしくそんな感じで、家にずっといると、服を着替えるのさえ面倒になる。
 特に今年の正月は、三日あたりから雪が降った。元旦と二日は綺麗に晴れ上がったのだが、寒冷前線の南下ということで、冬型が強まった。
 西高東低の等圧線が、完全に日本列島を包んでいる。完全に帰省ラッシュの足を混乱させるに十分であった。
 部屋のコタツでテレビを見ながら、帰省ラッシュの光景を眺めているのは他人事として面白いものだった。だが、さすがに一人でテレビを見ている姿を思い浮かべると、虚しさも襲ってくる。
 部屋の中はいくら暖房を入れても寒く感じられる。人がいないからだと気付くのに、一日掛かった。
「なんだか寂しいよな」
 夜になってコンビニに出かけた。さすがに蓄えていた食べ物にも飽きてきたのもあって、お酒におつまみを買いに行くつもりだったのだ。
 いざ、表に出てしまうと、どれだけ自分が出武将であったかということに気がついた。コンビニまでは歩いて五分ほどであるが、今までは目的地までまわりを見ることもなく歩くだけだった。
 だが、その日は、路地をキョロキョロしながら歩いた。ほとんど歩いている人がいなかったのも原因の一つだが、寒いので早く歩いているのに、なかなか店に着かなかった。
 何本目の路地だっただろう。普段なら絶対に気付かないと思いながら見ていると、その先に赤く光るもの。それが赤提灯だと気付くまでにしばらく掛かった。まさか、こんな寂しい路地に赤提灯があるなんて、想像もつかなかったからだ。
 雪が降っていたこともあって、少しもやが掛かっていた。真っ暗な路地に街灯がついてはいるが、もやが掛かって、薄いグレーを感じていた。
 赤提灯に誘われるかのように路地に入っていった坂下は、路地に入ると不思議と寒さを感じなくなったことに気がついた。風が止んでいたのだ。
 ゆっくりと歩いていくうちに薄っすらだった赤い色が次第にハッキリとしてきて、グレーを感じなくなった。暖かさを感じられるようになったからだ。
 ここまでくると食欲をそそる匂いが中から溢れてくる。
 中を覗くと、カウンターに人の気配はない。奥のテーブルにも誰もおらず、オヤジが一人で仕込みをしているところだった。
「いらっしゃい」
 景気のいい声が店の中にこだまする。煮込みは蓋をされていて、その横で、串に肉を通している。焼き鳥の具を作っているのだ。
「おいしそうな煮込みですね」
 焼き鳥もおいしそうだが、これだけ寒いと煮込みが食べたくなる。
「煮込みですね」
 そういうとオヤジが煮込みの上にある木の蓋を開けた。
 一気に湯気が出てくる。真っ白い湯気は斑になっていて、時々オヤジの顔が見えたかと思えば、また見えなくなる。匂いは完全に空いてしまっている腹を刺激していた。
 煮込みを食べるなど、いつ以来だろう。大学時代に友達との旅行で一緒に食べたのが最後だっただろう。呑みにいって煮込みを食べるよりも、鍋に走っていたのは、皆で食べられるものだというのと、一品で頼むと想像よりも小さな器に入ってくることでがっかりさせられたことが記憶にあったからだろう。
 だが、さすがにカウンターで対面式に煮込みがあれば、頼まないわけにはいかない状況に追い込まれた気分がした。表の寒さも影響してか、まず何よりも待たされることがないというのが一番の理由であった。
 出てきた煮込みを口でフーフーしながら食べるというのもオツである。
「なかなかおいしいですね」
 普段なら絶対に話しかけることもないはずなのに話し掛けてしまったのは、他に客がいないということと、それだけ本当においしかったからだ。オヤジはいかにも「オヤジ」であって、愛想笑いをする雰囲気ではなかった。
「ありがとうございます」
 深々と頭を下げているが、決してそれは愛想からではない。見るからに「職人」という雰囲気が漂っている。
 鉢巻の下は、剃っているのか、まるで坊主のようである。体格もよく、学生時代にはラグビーか相撲でもやっていたのではないかと思わせるほどである。
 声もハスキーで、あまり人懐っこさは感じさせないので、体育会系と考えるのが自然であろう。
 坂下は学生時代には、文芸関係のサークルに所属していた。ただ、人類学には興味があり、進化論に関しての本は、たくさん読んだものだった。
 そのせいか、人を見ると、すぐに動物をイメージしてしまうくせがある。
 オヤジは、最初ゴリラのイメージがあったが、よく見ると、少し優しさが感じられる。ゴリラが笑ったところの雰囲気だ。
 自分がゴリラだと思われているとも知らずに、黙々と仕事をしているオヤジ、まさしく職人である。
作品名:短編集64(過去作品) 作家名:森本晃次