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短編集64(過去作品)

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 きめ細かく見える世界に気持ち悪さを感じるのは里崎だけではないだろう。以前旅行で長崎に出かけた時、ステンドガラスに囲まれた天主堂に入ったが、その時にカラフルな画像がステンドガラスには描かれていて、それもきめ細かな部分まで光がキチンと行き届くように設計されていた。
「これは綺麗なものですね」
 そう言って眺めている観光客の集団、その言葉につられるように見つめていたが、次第に視線を逸らすことができなくなってしまったことに気付いた。
――いけない、このままでは頭痛がしてきてしまう――
 目を離さなければいけないと思えば思うほどかなしばりに遭ってしまったかのようにどうしようもなくなってしまった。身体の毛穴のすべてから熱い吐息が一気に噴出してきそうな気分になり、背中に汗が滲んでいるのを意識せざる終えなくなっていた。
 描かれている絵は、三段階で見えてきた。
 最初は何の絵が描かれているのかよく分からなかったが、次の段階で、子供が何かを見上げているのが分かってきた。このあたりで真剣、視線を逸らすことができなくなってしまっていて、
――まだ、何かが隠れているんだ――
 それを見つけ出すまでは目が離せないことは確定していた。
――キリスト――
 中央部分にキリストの絵が見えてきた。見えてきてしまえば、キリストにどうして気付かなかったか不思議なのだが、もし、ここでまた目を逸らしてしまえば、同じように時間を掛けて凝視しなければキリストを見つけることのできないという不思議な絵であった。
――だからこそ、目が離せなくなるんだ――
 それにしても他の人にはキリストが見えているのだろうか。
 会話を聞いていると、まちまちのようだった。
「素敵なキリストの絵ですな」
 と言っている人の横で連れの人が、
「キリスト? どこにそんな絵があるんですか?」
 と訊ね返している。
「見えませんか? あんなにハッキリと中央部分に見えているでしょう?」
「えっ、見えませんよ」
 そこからは不思議そうに二人で頭を抱えていた。だが、里崎にはその二人の気持ちが手に取るように分かった。見えない人の気持ちは見ようとしないからで、見える人の気持ちは、最初からそこにキリストがあると思って見ているからだろう。もちろん、それは二人とも無意識の気持ちがあるからに違いない。
 里崎も気がつけば、起こりかけていた頭痛がどこかに飛んでいってしまっていた。
――頭痛が起きなくて助かった――
 ホッとしていた。
 頭痛が起きる時というのは予兆がある。これは鬱状態に陥る時と似ているもので、まず目の前にクモの巣が張ったようになることだ。そして、次第に視界が暗くなっていき、それを治そうとして反発するかのように頭痛を招くのだ。
 そんな時の頭痛は厳しいものだ。頭のどのあたりが痛いのかすら分からないほど、触ってみると、感覚が麻痺していたりする。まるで歯痛のようだ。
 放っておけば治るのは歯痛よりもまだマシかも知れないが、余韻が残ってしまう。余韻が冷めるまでというのは、意外とイライラするもので、その間の自分が一番嫌いだったりする。
 波を見ていると、その時の頭痛を思い出すのだ。だからなるべく海岸線を見ることはない。
 だが、不思議なことに昼間はそれほど頭痛が起きる心配はない。もし電車に人が多くて海岸線側しか席が空いていないとしても、海岸線側に座ることは厭わなかった。それほど昼間は意識しないのだ。
 しかし、夜の明かりとなるとまた違う。そこだけが月明かりで光っているのは、まわりの暗さが永遠の暗所を暗示しているかのようだった。そこに限界などない。意識の中に限界を持たないことの恐ろしさを感じるからだった。
 その日も、途中からほとんどの人は降りてしまい、同じ車両には数人しか乗っていない状態だった。
 最初は意識していなかったのだが、自分が座っている反対側の海岸線側に一人の女性が座っていた。その女性は顔を正面に向けることなく、ずっと海岸線を見つめている。
――どんな表情なのだろう――
 まさか、凝視したまま、かなしばりに遭っているのかも知れないとまで思えてきた。彼女の姿に自分を思い浮かべてしまっているのだ。話しかけるわけにもいかず、ずっと彼女を見つめていた。里崎のそんな視線を知ってか知らずか、彼女はずっと車窓の外を眺めていた。
 里崎も表を見ることをすっかり忘れてしまっていた。自分が彼女を見ている状態がすでにかなしばりに遭っていることに途中から気付いたのだ。
――いったい、彼女には何が見えているのだろう――
 同じものが見えているはずなのに、里崎には自分が見えているものは、他の人とは違っているという意識が強い。だから彼女が普通に見えているのであれば、必ず里崎とは違う目線のはずである。
 だが、里崎には同じものが見えているように思えてならなかった。なぜなら彼女の姿を見ている自分の瞼の裏に、彼女が見えているであろう景色が写っているように思えてならなかったからだ。その光景はまさしく自分が彼女の席に座って見ている光景そのもので、かなしばりをどうしても意識しないわけにはいかないものだった。
 だからといって、彼女もかなしばりに遭うとは限らない。むしろかなしばりを経験するのは自分だけだと思っている。見えない彼女の表情は、まったくの無表情で、ただ目の前に見えている光景がそのまま目を通して意識の中に入っているだけに思えるのだ。
――ということは、俺が見えている光景は、何も考えなければ自然に見えているものだということか――
 余計なことを考えるから頭痛もするのだし、かなしばりも意識しなければならない。最初から無心になっていれば、何の問題もないのかも知れない。それを目の前にいる彼女が教えてくれた気がしていた。
 話しかけることもなく、里崎の降りる駅になった。降りる時に彼女の横顔をチラっと見たが、間違いなく無表情であった。冷たさを感じるほどの表情は、一瞬見るだけですべてを理解できそうだった。それだけにずっと見続けるものではない。ホームに下りると彼女から視線を逸らした。そして改札を抜けるまで、後ろを振り返ることはなかった。
 もちろん、後ろ髪を引かれる思いではあったが、それも仕方がないこと。だが、彼女をいつ見れるか分からない。どうしても気になってしまうように思えて仕方がないが、考えれば考えるほど、二度と見ることができなくなるのではないかという危惧が生まれてきてしまう。取り越し苦労かも知れない。
 その日は、家に帰るまでの意識はしっかりしていた。前日が電車の中で眠ってしまい、気がつけば部屋で寝ていた日だった。夜中に起きた記憶がりテレビを見たように思うが、その内容まではその時は覚えていない。まるで、それが翌日を暗示しているのだという意識があったにもかかわらず、その時はそれ以上の意識はなかった。なるようにしかならないといういつもの里崎がそこにいた。
 次の日はいつもと同じ電車だった。いつも変わらぬ人が乗っていて、
「前にも同じ光景を何度も見たな」
 苦笑いしてしまいそうになるのがいつものことだった。
作品名:短編集64(過去作品) 作家名:森本晃次