短編集64(過去作品)
最終電車ではいつもこのあたりで人が減ってしまうという駅になって、一人の女性が乗り込んできた。彼女は席を探しているのかキョロキョロしていたが、これだけ席が空いているのだから社内を見渡す必要などないはずである。
里崎と視線が合ってしまった。どこかで見た顔だと思ったら、昨日の海を見ていた女性だった。横顔は寂しそうでほっそりとして見えたが、実勢に真正面からだと、少しポッチャリとしていて、愛嬌を感じさせる。しかも微笑を浮かべているので、余計に親近感が湧いてきた。
意外にも彼女は里崎を見つめている。
「一昨日、どうしてこなかったんですか?」
少し離れた状態から声を掛けてきたが、明らかに里崎に話し掛けていた。
「どうしてって言われても」
もし自分にでなかったら恥ずかしいと思い、声に出せなかったが、彼女には声には出さなくとも分かったようだ。
「一昨日来てくれていたら、あんなことにはならなかったのに」
何を言っているのかさっぱり分からない。
彼女は続ける。
「だから、あなたがあの時駅に来てくれていたら、私はこの電車に乗ることもなかったし、昨日、あなたを探そうなんて思わなかった」
「あのぅ」
さすがに里崎にも分からない。
「里崎さんでしょう?」
「ええ、そうですが、どこかでお会いしましたか?」
「忘れているのですね。いいですよ、思い出さなくても。きっと思い出せないんだろうと思います。私も何も言わなかったことにしますね」
ふてくされているような感じではない。それよりもバツの悪そうな表情である。
「何も聞かなかったことにしてください。それに私と会ったことも忘れてください」
「急にそんなことを言われても」
すると、彼女はいよいよ当惑した顔になっていた。
「いいんです。私が余計なことを言ってしまったために里崎さんに余計な心配をかけてしまいましたね。気になさらないでくださいね」
喉の奥に何か言いたいことでもあるのだろうか。必死になって言葉を出そうとしているように見える。
「何かを言いたいのなら、おっしゃってくださってもいいんですよ」
里崎にとっては助け舟のつもりだったが、その言葉はさらに彼女の困惑に拍車を掛けたようだ。顔が真っ赤になってしまって、表情も冴えない。
すると、今度は彼女の姿が薄くなって見えてきた。ボンヤリと見えているというよりも、まるで分身の術か、酔っ払った時のように姿が二人にも三人にも見えてきた。
その時に彼女が一言言った。声として聞こえてきたわけではないが、その口ぶりから、
「私はあなたの一日先を生きているのよ」
よく言葉になっていないものを解読できたものだ。もちろん里崎に読唇術の技があるわけではない。自分でも不思議だった。だが、明らかに女性はその言葉を口にしていた。
向こうまで透けて見えているようだ。次第に電車の中の明かりが薄っすらとしてきた。窓の外の暗さに車内の暗さが追いついて来ているようにさえ思える。
指先が痺れてきて、脱水状態になってくる。喉はカラカラに渇いてしまっていて、喉が鳴っているのが自分でも分かる。
水分がなくなると、目を細めてしっかり見ようとするところがあるのは、脱水症状に陥る時の多くが、目覚めの時だからである。目覚めは当然目を開けるのに必死になって、開かない目を開けようと努力すると、顔の筋肉が引きつっているかのようになってしまう。痙攣でもしているんではないかと思うほどで、目を開けているのが一番辛い時でもある。
しかし、その時は目覚めというよりも、睡魔に襲われていると言った方が正解かも知れない。睡魔に襲われる時も喉が渇くことがあるが、その時とはどうも違う。やはり目が覚める時に感じるものであって、意識は自分の部屋に向っていた。
――このまま意識を自分の部屋に持って行きたくない――
目が覚めたら、また自分の部屋だったというのが嫌なのである。自分の部屋であれば、彼女がいる理由がなくなるので、彼女と永遠に会えなくなってしまうという意識が働いてしまう。
その時、一生懸命に目を開けようと踏ん張っていたが、彼女の存在を意識すればするほど意識が遠のいていく。そして、自分の部屋に飛んでいく意識を感じることができた。
今まで電車の中で眠くなってもこんな気分になったことはない。やはり電車の中というのは睡魔に一番襲われやすいところである。あの揺れに何か人間の心地よいリズムがシンクロしているに違いない。催眠効果抜群である。
やはり気がつけば、また自分の部屋にいた。
目が覚めて、そのまま目が冴えてしまい、テレビをつけた。これは二日前と同じである。
すると、またしても事故の話が飛び込んでくる。まったく同じように南北線の脱線事故である。
怪我をした人の報道に病院での中継が行われた。死者二人、けが人十数名というのは変わらないが、死者二人の内訳が違っている。男一人に女性一人だということだ。
まず女性のテロップが映し出されるが、そこに写っている女性の姿は、明らかに昨日、
「私はあなたの一日先を生きているのよ」
と里崎に話し掛けた女性ではないか。
名前は吉村小枝子、年齢は里崎と同じだった。
「そういえば、以前合コンした女性で、自分と誕生日が一日違いの女性がいたっけ」
彼女が里崎のことを知っていると言ったわけが分かってきた気がした。そういう意味では彼女のことを思い出してあげられなかったことが重たい後悔として残ってしまう。そのことを詫びる機会を永遠に失ってしまったからである。
彼女が、
「私はあなたの一日先を生きているのよ」
と言った時に気付いてあげるべきだったのだ。だが、今から思えばあの状況でもう少し時間があって考えたとしても、たぶん彼女のことを思い出すことはできなかっただろう。
――知らない人だ――
という思いが頭の中を支配していたからである。
一生懸命に考えてると、考えているあま時間を飛び越えるのだろうか。しかも飛び越えて出てくる先がまったく分からない。
「まさか、時間を遡っているんじゃないだろうな」
という危惧もある。
そしてブラウン管に映し出されたもう一人の死者である男性。その人を見た時、愕然としてしまった。
「俺はいったい何なんだ」
映し出された男の名前は里崎信二。まさに自分ではないか。
またしても指に痺れを感じる。だが、半分安心していた。永遠に失った謝る機会がまた訪れるからである。そして頭の中に去来したのは、
「自分の部屋で寝ている自分、これが永遠に続いていくのではないか」
という思いだった……。
( 完 )
作品名:短編集64(過去作品) 作家名:森本晃次