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短編集64(過去作品)

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 自信喪失までは一言が原因であっても、喪失に行き着くまでに紆余曲折がある。なかなか行き着かないので、一言が重くのしかかることもあまりないのだが、少ないだけにショックも大きい。
 悪いことを考え始めると、どんどん悪い方へと考えが誘導されてしまうことに気付くことがある。そんな時が自信喪失の扉を開けてしまう時で、目の前にある扉を開ける自分が見えてくることがある。
「俺って躁鬱症なのかも知れないな」
 多重人格な性格だと思い始めた頃から感じていたことだが、二重人格と躁鬱症の明確な相関関係について自分の中で納得できないところがあるので、あまり深く考えていなかった。里崎は自分の中で納得できないことは信じることをしない性格なので、モヤモヤしたものが残るくらいなら、スパッと否定する方だった。
「竹を割ったような性格」
 判断の早さを生むのはそんな性格である。里崎には竹を割るまでの性格ではないと思うが決断は早い方ではないだろうか。
 それも歴史の雑誌を読んでいるのが影響しているかも知れない。過去の話が歴史書として残ってはいるだろうが、実際に見たわけではないのに、まるで見てきたような描写で書かれている。自分も、その世界の一員になったかのように読んでいると、ひらめくものも生まれてくる。それが実際の自分がいる世界で通用するとは限らないが、同じ人間として、自分も同じような行動を取るだろうと共鳴できるところがあるのも事実だった。
 最近は、女性で歴史に興味を持っているという人に出会うことも多くなった気がする。学生時代には少しは歴史に興味のある女性もいたが、社会に出ると、特に高校を卒業して就職してきた女の子のほとんどは、
「歴史って一番嫌いな教科でした」
 と歴史の話はタブーであった。自分の得意分野を否定されたような気がして少なからずのショックを受けたのも事実である。
 歴史の本を買って時計を見ると、そろそろ駅に向かってもいい時間になっていた。時間には余裕を持って持ちすぎることはない。里崎はそう思っていた。
 いつも電車到着十分前くらいには駅に着いていないといけないと思っている。十分でいけると思えば二十分前に出る計算だ。
 電車に乗っても表が見えるわけでもなく、それでも窓際に座ってボンヤリと表を見ている。中が明るく表が暗いとマジックミラーの逆で表はほとんど見えない。中の光が反射したりもする。
 電車の中で本を読むと、まず間違いなく睡魔に襲われる。お腹が減っているわけではないのに、指先が痺れてくるほどの空腹感に襲われるのもおかしなものだ。
――きっと、心地よくなりすぎるのかも知れない――
 何度も睡魔に襲われても必ず乗り過ごさずに過ごせることは、明らかに夢が熟睡の中だけのものでないことを示している。
 乗り過ごすこともないのに夢を見ることがある。夢とは深い眠りの時に見るものと浅い眠りでも見るもの二通りあるように思うが、電車の中では浅い眠りの中で見るものなので、よりリアルに近いものなのかも知れない。
 浅い眠りで見る夢は、電車の中で乗り過ごしてしまって、起きた時に自分がどこにいるか分からないというような夢だったことがあった。
 以前、地獄に行った夢と言うのを見たことがあったが、誰でも見れる夢のようで、
――この夢は俺の世界だ――
 と考えている自分もいた。テレビドラマや小説に出てくる地獄というのは、一つのイメージから始まっていて、いくつものステージのステップアップが考えられるのだった。
 血の池地獄、針の山地獄、そのすべてに鬼がいて、それぞれの地獄の番人だったりする。あまりにも鬼のイメージが強いので、本当にそこの一番えらい人が誰か分かる機会を失ってしまっている。
 睡眠と鬼に何の因果関係があるのか。それとも夢を見ていると、地獄をイメージしてしまうからなのか分からない。ただ、電車の揺れが心地よい揺れである時はいいのだろうが、疲れなどにより生じる不規則振動であれば、悪い夢を見る可能性は高くなってしまうであろう。
「夢というのは、目が覚める数秒で見るものだ」
 という。
 数秒の間にさまざまな描写が頭の中で描かれていると思うと、人間の頭もコンピュータ並みの計算の速さを持っていることになる。
 寝ている時ほど余計なエネルギーを使わずに集中できるというものだ。下手に動けばそこに隙ができてしまう将棋や囲碁の世界に似ている。
 睡眠療法というのがあるが、その人が捉えて離さないトラウマや苦しみを夢の中で発散させていることを利用した治療法でもあったりする。普段、まったく無口な人でも、夢を見ている時は話したりするものだ。無口な人は人が信じられないから何も言わないようにするということで、自分の中では必死に誰かに訴えようとしているのではないだろうか。
 訴える相手が誰であれ、自分以外の人へ向いていれば、夢の中で訴えることも少ないだろう。
 だが稀に訴える相手が本当に自分しかいないと思っている人は、夢の中で訴えるしかない。そんな相手をイメージできるはずもなく、摩訶不思議な世界の中で、何の感情も持たない鬼に対して話しかけているのではないだろうか。
――覚めない夢はないというが、本当だろうか――
 と考えることがある。
 眠ってしまって、そのまま目が覚めないという危惧に襲われたことがあるが、怖い夢を見ているという夢を見たこともあった。
 夢の中で夢を見ているというシチュエーションは気持ち悪かった。自分の左右両端に鏡を置き、そこに写っている無限の自分を見ている気持ち悪さを感じたのだ。実際にそんなことは遊園地のミラーハウスでもなければできるはずもないが、想像の世界では何でもありだった。
 本を読んでいると、自分が主人公になった気がしてくる。だが、本を読みながらそのまま眠ってしまうと、本の中の主人公になった自分が、本を読んでいる自分の存在に気付いている。もちろん、本の中の世界は普通の世界で、空を覆っている架空の天井から見つめられているように思えてくるのだ。いつその天井の壁が割れて、本を読んでいる自分の顔が飛び出してくるか、そのことをいつも不安に思っている自分を感じるが、普段の世界でも時々
――空が割れて、そこから顔が飛び出してくればどんなに恐ろしいだろう――
 と感じたことがあった。
 学生時代に、心理学の授業で「箱庭治療法」なるものを習ったのをイメージしてしまう。
 夢を見ている時、色を感じないと思うことがあるが、そんな時、本当に見えている光景がモノクロになっている。モノクロになったということを感じるということは、最初は色がついていたという証明にもなるだろう。
――夢というのは見るたびに何かを忘れていくものではないだろうか――
 そんな思いが頭をよぎる。
 色を忘れてしまったり、匂いも忘れてしまう。何よりも夢では本当に自分を理解しているのかどうかすら分かったものではない。
 何かを叶えてくれるとすれば、それも夢の中でのことだろう。実際に叶えられないものであったり、目標にすることを「夢」と表現しているが、それは寝ている時に見る夢とは一線を画している。
作品名:短編集64(過去作品) 作家名:森本晃次