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短編集64(過去作品)

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 と感じることが多い。見たはずのつもりでいたのだが、それが本当だったのかどうか、夢だったのではないかとさえ思えるのだ。実に不思議な感覚である。
 ネオンサインに映し出された波紋は、綺麗な年輪を描いているが、いつも一つしか見ることができない。前にできた波紋と同じ力の波紋でないと晴美の期待している結果は得られない。
 あまり小さなものでは、波紋は起こらないし、石のような大きなものでは、もってのほかである。
 タイミングにも問題がある。前の波紋が広がりきるまでに次が起きないと、効果がないのは歴然としているからだ。
 そう考えると、あめんぼうでもなければ同じ現象を起こすのは難しい。今まで見たことがあったと思ったのはあめんぼうを見た一回だけではなかったか。
――でも、何度か感じたはずなんだけど――
 夢だったと思うのが自然ではないか。自分の思っていることが潜在意識によって見ることができる夢の中で再現された。そう考えるのが自然に思えた。
 冷たい空気の中を歩いていると、考えるのは暖かいものばかりである。
 暖かい暖炉、暖かいスープ、暖かいコーヒー、どのすべても心だけを温めてくれるものになりうるであろう。
 強い風は髪をなびかせ、視界を遮る。歩いていて痛いくらいの風は息が出来ないくらいになっていた。
 コートの襟を立てて歩いている人の多くは背中が丸まっている。歩いていて却って寒さを感じさせられる。なるべく他人を見ないようにしながら歩いた。
 地下鉄の駅へと降りると、急にざわつきを感じた。強い風のために起こっていた耳鳴りの余韻が残っているはずなのに、人の気配を感じた途端、ざわつきが襲ってきたのである。ざわつきは耳に残るよりも肌で感じることができる。寒い中を歩いていて麻痺しかけていた指先や唇、耳たぶなどの感覚が、ざわつきによって一気に戻ってきたように思えてきたのだ。
 館内放送のやかましさをこれほどまでに感じたことはなかったが、駅のホームまでいくと、今度はざわつきを感じなくなった。
 二駅ほど乗って、また地上に出る。そこから百メートルほど歩いたところで、幸恵さんと待ち合わせをしている。
――今日はどんな格好で来ているのだろう――
 想像力が膨らんだ。
 幸恵さんのマンションは、待ち合わせ場所からすぐのところにある。今までに待ち合わせ場所を自分の住まいの近くにしたことのなかった幸恵さんだったことに違和感を感じていた。
――部屋に連れてきたくないのかしら――
 それならば、もっと遠くで待ち合わせを考える女性である。待ち合わせの時間までまだ時間があったことから、部屋まで行かないまでも幸恵さんのマンションの近くまで行ってみようと思った。
 幸恵さんのマンションは、駅から一筋入り込んだ道にあった。築からすればかなり経っているはずのマンションだが、交通の便がいいことから、
「家賃も高いのよね」
 と零してた。
 交通の便が少々悪くても、綺麗な部屋を好みそうな幸恵さんなのに、あえてそんな場所に住まいを構えたということは、ご主人さんの意思が介在していることは分かっていた。
 地下鉄の出口から地上に出ると、あまりネオンサインはなく、寂しいところではあるのだが、それほど寒さは感じない。
 その理由はすぐに分かった。風がないからである。しかもネオンサインも街灯もない寂しいところだから、
――さっきよりも寒いに決まっている――
 という思い込みがあるから、風がないだけで、かなり暖かく感じられる。明るさに対しての思い込みの激しさは晴美に限ったことではないだろうが、かなり歩きやすく感じられるので、幸恵さんのマンションの近くまでは、思ったよりも苦もなくやってくることができた。
 玄関から入っていく気にもならなかった。正直、ここで出会ってしまっては、お互いにバツが悪い。なるべく見つからないようにしながら、玄関を通り過ぎ、裏へと回った。幸恵さんの部屋は十階建てマンションの六階に当たる。結構ワンフロアーに部屋が多いので、どの部屋が幸恵さんの部屋か分からないが、裏から覗いてみると、明かりがついている部屋は多く、明るさが道にまで溢れてきそうだった。
 部屋の明かりの届かないところまで歩いてくると、今度はまた寒さを感じた。
「裏に回らなければよかったわ」
 と呟きながら、暗闇に消えると、そのまま待ち合わせの喫茶店まで振り返ることなくやってきた。
――あれが普通の生活をしている人の暖かさなのかしら――
 自分の知らない普通の生活。それは家庭を持つことだと思ってきた。
 晴美もそろそろ適齢期、結婚を考えてもいい時期だが、実際には結婚を考えないわけでもない。だが、今の時代は、結婚を急ぐ必要もないし、下手に急いで失敗する可能性だってないとは言えない。実際に結婚したいと思い続けることは困難で、ピークを超えると、精神的な飽和状態になってしまう。お腹が空きすぎると今度は食べたくなくなる心境に酷似している。
 幸恵さんには思い込むところがあった。妄想癖と言ってもいいかも知れない。シンデレラにでもなったかのような精神状態になることがある。それも人から羨ましがられる綺麗なシンデレラではなく、まわりから蔑まされる惨めなシンデレラすら妄想してしまうのだ。
 アルコール依存症ではないだけに、一人で抱え込んだストレスの発散をうまくできているかという不安もあった。自分にも同じようなところがある晴美だけに感じることだった。
 ある意味、普通の生活に入った幸恵さんを羨ましく思うこともあったが、一抹の不安を拭い去ることもできなかった。
――幸恵さんは、何を言いたいのだろう――
 今日の待ち合わせを決めた時の電話口での幸恵さんは、普段と変わりなく話していた。却ってそれが気持ち悪い。相談があるような口ぶりだったのに、普段と変わりないというのも幸恵さんらしくない。会社では平静を装っているが、プライベートでは自分が表に出てしまう。自分でも気付かないところで、自分を表に出さなければ気がすまないところがあるからに違いない。
 喫茶店について、幸恵さんを待っていた。いつものように窓際に座る。くせになっているので、勝手に窓際に席を取るのだ。幸恵さんはやはりまだ来ていない。ゆっくりとまっくらな表を見つめていた。
 いつもの喫茶店のように中の様子が反射して見えた。広い店内を感じながら、さらに句を見ていると、そこに白い服を来た幸恵さんが写っているのを感じた。
 思わず後ろを振り返る。
「幸恵さん」
 小さな声で叫んでみるが、そこには幸恵さんの姿はない。表を歩いている姿が見えたのか、再度表を見るが、そこには幸恵さんの姿はない。
 真っ白な服はどこにもなく、店に入ってくるのだろうと思って待っているが、一向に現れない。
 何となく寒気を感じた。嫌な予感が脳裏を貫いたといってもいいだろう。そのままかなしばりにあったかのように身動きが取れなくなった晴美、汗が額から滲むのを感じていた。
「幸恵さん」
 何かを言いにきたのだろう。
作品名:短編集64(過去作品) 作家名:森本晃次