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短編集64(過去作品)

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 フリーなので、絵画でも文章でもアニメでも何でもありである。自分とは違う分野の人の作品でも敬意を表していた。作ることの素晴らしさをその人から教えられることもある。何がありがたいといって、充実感を与えられることが一番のありがたさであった。
 人にないものを自分が持っていたり、自分にないものを人が持っているのを感じることの素晴らしさを知った。人にないものを持っていると自信になるし、人が自分にないものを持っていると、励みになる。やっかみや嫉妬からは決して生まれない感覚である。充実感が自然に身についていた時期である。
 幸恵さんが結婚してから二年が経った。
 あっという間の二年間ではなかっただろうか。その間、晴美は普通で平凡な毎日があっただけである。何が普通で平凡なのかと聞かれると答えに困ってしまうが、しいて言えば、
「赤いものがハッキリと赤く見えなかった時期だったのかも知れない」
 という表現が適切かも知れない。
 見たものを正直に表現できるほど、素直な気持ちになっている時はないだろう。それだけに、普通で平凡な生活は晴美にとって素直な気持ちではいられなかった時期だった。
「赤いものが本当に赤く見えるなんて、なかなかないことよ」
 幸恵さんなら冷めた表情でそう言うような気がした。結婚式の時はさすがに幸せそうな表情だったが、よく見ていると冷めているように見えた。
――普段の印象が強いからかしら――
 と思えてくるが、それも言えるであろう。ウエディングドレスを着ているからといって違う人間になったわけではない。しいて言えば、結婚式というお祭りムードが自分の目に錯覚を与えていた。
 ご主人さんになる人は、普通のサラリーマンということだ。
 普通のサラリーマンが普通のOLと結婚する。判で押したような絵に描いたカップルである。
 結婚と同時に会社を辞めた幸恵さん、旦那さんが専業主婦を望んだのだという。やり手のOLがいくら旦那さんの頼みとはいえ、そう簡単に生きがいに近い仕事を辞められるのかいささか疑問ではあった。だが、そこには幸恵さんなりのポリシーが存在しているに違いない。
 仕事を離れると、見えなかった部分が見えてくるのかも知れない。確かに仕事をしていると、仕事をしているという充実感だけの世界に浸ってしまって、まわりが見えてこないこともあるのではないだろうか。言葉は悪いが、年齢を重ねてもずっと会社に居座っている「お局様」と呼ばれる人たち、
――何を楽しみに生きているのかしら――
 とまで思ってしまう自分が、
――十数年後の自分の姿かも知れない――
 不吉な予感が汗となって背中を走る。
 会社を出た午後六時過ぎというと、もう日はすっかりと暮れていて、夜のしじまが忍び寄っていた。ネオンサインの明るさに目を奪われることもなくなっていて、それだけ毎日を平凡に過ごしていた証拠かも知れない。
 仕事が終わっていつも同じ道を帰り、たまに立ち寄る喫茶店で、夕食を食べて帰るくらいが、唯一の寄り道であった。
 パスタのおいしい店で、特にナポリタンがお勧めだ。ナポリタンといえば平凡ではあるが、今まで食べたどのナポリタンにはない味である。麺の太さも手ごろで、餅もち感があり、何よりもベタベタしていないところが嬉しかった。トマトソースが適度に麺に滲みこまされていて、香ばしい香りとともに歯ごたえも十分である。
 店はマスターと奥さん、大学生のアルバイトの女の子がウエイトレスとして働いていた。アルバイトの女の子とは仲がよく、会社の話を聞きたがる。まだ学生の彼女に、社会の何たるかなど分かるわけもないので、差し障りのない話にとどめている。
「人に話ができるほど、ベテランじゃないわよ」
 と言っても、聞きたがる。晴美は自分が学生の頃を思い出して話をしていた。
 愚痴などはもちろんご法度だが、あまり夢のような話もできない。なるべくやりがいと充実感を感じさせてあげる話をしながら、ウソだけは言わないように心がけていた。
――結構難しいものね――
 これは新人を教育するよりも難しい。責任はないが、夢や希望の芽を摘みたくないと思うのは、自分の学生の頃がダブって見えるからである。
――幸恵さんも同じように私を見ていたのかしら――
 と思わないでもない。幸恵さんは冷静だったのも、なるべく相手に気を遣わせないようにと考えたからだろう。仲良くなるまでは分からないことだが、自分も幸恵さんのように話をしてあげればいいのだと思う。
 幸恵さんとの待ち合わせの時間まで、少し間があったので、喫茶店でコーヒーを飲むことにした。夕食はきっと一緒だろうと思うので、まずはゆっくりと落ち着きたいという気持ちになった。
 いくら親しかった人とは言え、一年以上もご無沙汰の人である。緊張するのは当たり前のことで、そんなときに一杯のコーヒーは精神的に落ち着きを取り戻すためには最適であろう。
 三十分はいたであろうか。その日は風も強く、体感気温はかなり寒かった。暖かいコーヒーが恋しくなるのも当たり前で、一旦温まってしまうと、今度は表に出るのが億劫になる。
 中から見ていると、表は真っ暗に見える。窓ガラスは鏡と化して、店の中が見えているが、逆光になっているために自分の表情は分からない。
 こじんまりとしている店なのに、広く感じられる。広く感じられるせいだろうか、あれだけ暖かく感じられたはずの店内が、窓ガラスを通すと冷たく感じられる。だから余計に広く感じていた。
 自分の表情が見えないのも暗さに輪を掛けていた。きっと目の焦点は窓ガラスに写っている店全体を捉えているはずなので、表情が写ったとしても、不思議な顔をしているかも知れない。
 そんなことを感じながら表を見ていると、時間などあっという間に過ぎてしまう。
 三十分のところで、よく気がついたものだ。それ以上見ていると、一時間が経つまで気にならなかったに違いない。それほどまったく動かない景色に集中していると、時間の感覚が麻痺してくるというものだ。
 それだけ集中力が強いからに違いない。集中していると、次第に焦点が狭まってきて、明るく感じられるもののように思えるがその日は違った。そんな感覚に陥ることもあるのだと単純に思い過ごせるものなのかを自問自答している。晴美の中で表の景色がその時の気持ちを表しているように思えてならなかった。
 店を出ると、さすがに冷たい空気に晒された。枯葉が舞っているのが見える。前の日に降った雨がまだ残っているのか、水溜りに落ちる枯葉を見て、波紋いつもよりゆっくり広がっているのを感じた。
 晴美は、波紋を見ると見逃せないタイプであった。小さい頃、あめんぼうがスイスイと水の上をなでるように進んでいくのを見て、子供心に、
「不思議だな」
 と感じたのを思い出すからだ。一つの波紋が年輪のように幾重にも重なっているのを見て、さらに別の波紋が広がっていく。先の波紋を後の波紋が押し流す光景を飽きずに見ていたことは何度もあった。
 だが、最近はその光景に違和感を感じるように思えてきた。最近ではあまり波紋をみることがなく、後に出来た波紋が前の波紋の勢いを消すというのは当たり前のことだが、
――本当にそうだったのかしら――
作品名:短編集64(過去作品) 作家名:森本晃次