夢ともののけ
「小説を書いている時の自分が本当の自分だって思いたいのは、理想だって思うんです。本当の自分がどこにいるかなんて、しょせんは関係ないような気もしてきました。でも、小説を書いている時の自分が別世界を作っているということだけは認めたいんです。だから、その際の本当の自分なんて、どうでもいいような気もしてきました」
「でも、そこまで考えが行きつくには、結構試行錯誤があったでしょう?」
「ええ、確かにありました。でも、試行錯誤が正しいかなんて、誰にも分からないし、分かる必要もないんじゃないかって思うんです」
「やけに投げやりな言い方ですね」
「そう聞こえますか? 投げやりというよりも、本当にどうでもいいと思えることが増えたような気がするんです。ただそれを自分で投げやりだと認めたくないだけなのかも知れませんけどね」
と優香が言うと、
「人って、前よりも今、今よりも先って普通は考えますよね。それが成長であり、後退は考えたくないというのが心情なんじゃないかって思うこともあります。優香さんが今言われたことは、その考えに沿っているように思えるんですよ。そう思うと、投げやりになっているというのは、どこか自分で後退してしまいそうになっているのを否定しようとしているんじゃないかって感じます」
優香は少し考えてから、
「そうかも知れません」
と答えた。
その表情は神妙なもので、考えていることがどこまで信憑性のあることなのか分かっていないだろう。もし、彼の言っていることが本当のことであれば、ズバリ指摘されたことで、自分の中に反発心が芽生えてくるはずだからである。反発できない分、その言動に投げやりな部分が見えているのも仕方のないことだろう。
「人って時系列で成長していると思いこんでいるんですよね。でも、確かに時系列という発想は大切ですし、時系列という発想がすべての発想の原点だと言ってもいいような気がします」
彼は何が言いたいのだろう?
「だって、時系列以外の何を思うというの? 現実だけを見つめる場合には、時系列が絶対的な基本となるものですよね。時系列の基本が崩れるということは、異世界を想像するようなものですからね」
と優香は口にしたが、それは彼の言っていることの裏付けのようなものでしかないことを分かっていながら口にしていることだった。
「でも、時というのは必ず変動しているんですよ。今こうやって話していることも、一瞬にして過去になる。未来が現在になって、現在が過去になるんですよ。そういう意味での現在は本当にピンポイント、よく人が、『今を大切にしなければいけない』っていうけど、その時の今って、いつを差しているんでしょうね? それを思うと自分におかしな感覚に襲われて、思わず笑い出したくなってしまいそうになるんですよ」
と、彼は言った。
「その通りだと思います。でも、今を考えている時って、自分の中では現在が動いているという感覚はないんですよ。確かに時間というものは同間隔で刻まれていく。その感覚を抱くことは可能だし、実際に身体も頭もそれを感じながら生活をしていると思うんですよね。だから、現在という思いと、時間という感覚は。そもそも同じ土俵にあるものではなく、別の次元にあるものなのかも知れません。それが私にとっては普段の自分と、小説を書いている時の自分との違いのようなものではないかって思うんです」
と優香は言ったが、この頃には自分が十分に雄弁になっていることに気付いていた。
「時系列って何なんでしょうね? 僕はあまり意識したことがないんですよ。誰かの前に現れて、こうやっていろいろ話をしている時の自分は、その時々でまるで違う人間になっているかのような気がする。その人が歩んできた人生を知っているつもりでいるのに、本当は知らないと思ってもいる。ひょっとすると、その人の本心が分かっているのかも知れないけど、相手がそれを認めたくないので、僕は完全に相手の本心を分かることはできないんじゃないかって感じています」
彼の正体がどういうものなのか、優香には分からなかったが、彼と話をしていると、優香のことをよく分かっているのは理解できた。
しかし、理解はしているかも知れないが、本心を理解してくれているのかと思うと、どうも違っているようだ。逆に分かっていないからこそ、好き勝手なことも言えるのかも知れないし、彼の存在自体が優香の心とシンクロしているのではないかと感じるのだ。
「時間というのは、規則正しく時を刻むもので、一分は六十秒、一時間は六十分、一日は二十四時間と、決まっているんですよね」
と優香がいうと、
「それは古代の人間が、天体との間で決められた約束事のような気持ちで考えたことなのかも知れませんね。でも、それが今もずっと息づいている。そして、時を規則的に刻むことに対して誰も疑問を抱く人もいない。それだけ強力ではあるんだけど、少しでも違う考えが出てきたら、どうなってしまうんでしょうね?」
と、彼が言い出した。
「別に変わらないんじゃないですか? それだけの歴史と実績があるんだから」
と優香がいうと、
「じゃあ、優香さんは歴史と実績さえあれば、それは完璧なことだって言いきれるんですか?」
と彼に言われ、優香はハッとした。
「そんなこと、考えたこともなかったわ。当たり前のことは当たり前のこととして考えていたわ」
「だから、前を見るんですよ。時系列に沿った考えが当たり前だと思うんですよ」
「一足す一が二だっていう発想と同じですよね」
と言って、優香は自分が算数の基礎が分かっていなかった頃のことを思い出した。
後になって思えば、
――どうして、あんな簡単なことを受け入れられなかったんだろう?
と思ったが、
――何でもかんでも受け入れてしまう発想こそが危険なのではないか?
と、感じている今は、彼の話を真剣に聞くしかなかった。
「学問の基礎って、分かってしまうとそこから先はさほど苦難はない。最初の理解こそが一番の難関なんじゃないかって思いますね」
という彼の言葉を聞いて優香は、
「うんうん」
と、無言で頷いていた。
すると彼は話を続ける。
「囲碁や将棋の世界で、一番隙のない布陣が何かということを話題にする人がいたんですよ」
少し話を変えてきたのか、彼の話にまた興味をそそられた。
「それはどういう布陣なんですか?」
「最初に並べた形なんですよ。一手打つごとに、そこから隙が生まれてくる。何事も最初が肝心だというのは、そういうことも含んでいるんじゃないかって僕は思っているんですよ」
と、彼は言った。
話を逸らしたかのようで、実際には元の話に繋がっている。それが彼の話術の素晴らしいところなのではないかと優香は感じていた。
「でも、それだったら、勝負にならないじゃないですか? でも、今のお話を踏まえて考えると、勝負事って、減算法のようなものなんじゃないかって考えてしまいますね」
優香は、否定しそうになりながら、自分の意見も答えた。
即答に近い形のものだったが、優香自身もここまで即答できるとは思ってもいなかったのでビックリしている。