夢ともののけ
夢の世界は元来、主人公として君臨している人が支配して当たり前の世界だ。そんなことは当然のことであり、
「何をいまさら」
と自分に言い聞かせるが、夢から覚めた時には覚えていない。
ふとしたことで思い出すのだが、思い出した瞬間に、またすぐ忘れてしまう。そんな夢の中での堂々巡りが、優香の中で覚えている夢と、覚えていない夢とを切り分けているように思えた。
小説の題材にするには、結構難しいものである。論文形式になってしまいそうで躊躇したが、
「論文形式のような部分があっても、別に問題ないんじゃないか?」
と思うようになると、小説を書いていきながら、文章の途中から、先の文章が思いついてくる。
気が楽になったと言ってもいいだろう。
――もっとも小説など、考えながら書いていたら、先に進まない――
と思っていた。
昔の文豪が原稿用紙をクシャクシャに丸めて捨てている様子を見ると、行き詰っていることが分かる。文章のいい悪いは別にして、思ったことをいかに書きとめることができるかということが大切なのではないかと思うのだった。
「おや?」
主人公は、もう一人の自分ばかりを見ていて気付かなかったが、自分の夢に出てきたこの不思議な男が、机に座って何かを書いているのを見た。
――何を書いているんだろう?
その男は、和服を着ていた。
その様子はまるで明治時代の書生を思わせた。明治の文豪と呼ぶには少しイメージが違ったが、不思議とその書生姿が様になっていた。
もう一人の自分がすぐそばで小説を書いているのだが、その書生の姿に気が付かない。
――私が見えているだけで、二人はそれぞれの存在を見ることができないんだわ――
と思うと、なるほど、これが夢であることを悟ったかのようだ。
主人公が書いている話は普段から自分が気にしている内容の恋愛小説のようだった。まわりに誰もいないと確信できるからこそ筆が進んでいる。少しでも誰かがいることを意識すると何もできなくなる主人公だった。
主人公が小説を書けるようになったのも、まわりに誰もいないところで書けるようになったのが最初だった。
今でこそ、少し騒がしいくらいでなければ書けなくなったが、最初は人を意識してしまうと何もできなかったのだ。
どうしても人の目が気になる。
「自分のことなど、誰が気にするというのか」
と確信に近いほどの思いがあるにも関わらず、いったん小説を書き始めると、絶えず誰かの視線に晒されているように思えてならない。
そもそのそのあたりから矛盾していたのだ。
小説を書こうと思った時、自分の中にある矛盾を一つ一つ解決していかないと書けないのだと思った。
だが、逆に小説を書くことで、自分の中にある矛盾が一つずつ解消されていくという考えもあった。それこそ矛盾である。
この考えは、大元の小説を書いている優香に言えることだった。小説を書きたいと思うようになってから、どうしても書けない時期がずっと続いていたが、その理由が自分が感じている矛盾にあるということに気付いた時、何となくではあるが書けるようになるのではないかと思うようになった。
優香は小説を書いている時、
――まるで夢を見ているようだ――
と感じた時が何度かあった。
その根拠は、小説を書いている間のことを、書き終わってから思い出そうとしても、なかなか思い出せないからだ。
――それだけ自分の世界に入り込んでいるんだわ――
と思っていた。
それは、自分が作り出した世界なのか、それとも、潜在的に有している、自分だけにある空間ではない世界なのか分からなかった。だが、思い出せないということは、それだけ集中しているということであり、決して悪いことではないと思うのだった。
だが、一気に書いてしまうのであればそれでもいいのだが、長編になると、一日で書けるものではない。何日も何十日も掛けて書くものだから、書き終えるまで覚えておかなければいけないことも少なくはない。
書いていて辻褄の合わなくなることも往々にしてあった。今回の小説の続きを書いているつもりで、実は前回の小説の続きを書いているということもあった。
――完結させたはずなのに――
と思うのだが、完結した瞬間、前の話が頭の中からリセットされたというのであれば、それも分からなくはないが、中途半端に残ってしまっているから始末に悪い。しかもせっかく完結させた話とはまったく違う結末に向かってしまっているというのはどういうことなのか、優香の悩みは尽きなかった。
優香は今も小説を書く時、同じ悩みを抱えていた。それでも、書いている時、自分の世界に入り込んでいると思うのは悪いことではなかった。
――忘れてしまうのは仕方のないこと。逆に忘れるという意識がなければ、私に小説なんか書けるようになるはずなかったような気がする――
と感じていた。
何かを手に入れるには、何かを犠牲にする。
優香は自己犠牲をあまり良しとはしていなかったが、無意識のうちに行っていることであれば、それも仕方のないこととして受け入れようとしていた。それが小説を書ける代償であるなら、仕方がないというよりも、甘んじて受け入れるしかないと思っていたのだ。
優香が小説を書いている時、夢の中にいるように感じているのは、その時に書き終えた瞬間から、書いていた時間帯のことを忘れていると思ったからだけではない。優香には小説を書いている時、もう一人誰か近くで同じように何かを書いていることを意識していたからだ。
それは自分ではない。もう一人の自分を感じるのは夢の中だけのことなので、小説を書いている時に、
「夢の中にいるようだ」
と思っているのであれば、それはもう一人の自分であるはずだ。
――いや、もう一人の自分であるべきだ――
と優香は考える。
もう一人の自分であるはずだという断定的な言葉は、夢に対して使ってはいけないように思えた。そういう意味で、断定ではなく断定に限りなく近い確定的な表現を考えると、
「べきだ」
という言葉が一番ピッタリではないだろうか。
優香がこの小説を書いていて、もう一人の自分とは違う誰かが、小説を書いているというシチュエーションを敢えて考えたわけではない。夢を見ているという感覚が最初からあると、自分の考えは夢の中ではすべてが受動的なもので、自らが考えたものではないと思える。
だから優香は自分で書いている小説の中で、誰かが小説を書いているという話ではあるが、頭の中にもう一人の自分を意識していたのだ。
もう一人の自分を意識した時点で、それは夢の中にいるという意識が働いてしまう。そう思うと優香は、
「これが、夢の中で小説を書いているのか、それとも夢を見ているという小説を書いているのか分からなくなった」
と感じていた。
優香にとってその二つは、どの方向から見たとしても、矛盾していることに変わりはなかった。
「夢の中にいることと、小説を書いている時間とでは、切っても切り離せない何かが存在している」
と思っているからだ。
だから、それぞれの中に、もう一方を入れ子にしてしまうということは、その時点で矛盾していることになる。優香はその自覚は持っていた。