感情の正体
司書室にいた女の人はおとなしいタイプの女性だった。元々自分がおとなしいタイプなので、派手なタイプは苦手だと思っていたので、司書室の女性を意識することすら相手に失礼だと思ったのかも知れない。
正樹は別に目を合わせようという意識があったわけではないのに、不思議と目が合った。その時、彼女がニコッと笑ってくれたのだが、あとから思えば、その表情には恥じらいのようなものがあったような気がした。
だが、それは恥じらいではなく、ただ目が合ったことで単純に戸惑っていただけだった。戸惑いの表情が恥じらいに見えたのは、正樹にとってはよかったのかも知れない。それ以降の正樹は女性の戸惑いを恥じらいのように感じたからだった。
女性が戸惑っているのが分かると、男性もどうしていいのか分からなくなることが往々にしてあるだろう。相手が戸惑っているのに、自分までもどうしていいのか分からないと、お互いに気持ちがすれ違ってしまうに違いない。そういう意味では正樹の方が勘違いとはいえ相手に対していい印象を持つことで、戸惑っている女性に気持ちの上での余裕を与えることができるという意味で、よかったと言えるのではないだろうか。
ただ、それは正樹にとってよかったというわけではない。相手の気持ちに余裕ができたとはいえ、元々戸惑いは正樹との間に生じたことなのだ。お互いに気まずい思いにならないだけマシだったというだけで、本当によかったと言えるのかどうか、疑問である。
正樹は、結局彼女に話しかけることはできなかった。彼女も正樹を見ても視線を逸らすことはないが、別に何かを話しかけてくれるというわけではない。
――目を逸らしてくれる方がよかったかな?
と、あとで思ったが、目を逸らしてくれるということは、少なからず意識してくれているということであり、目を逸らしもしてくれないということは、正樹のことなど眼中にないと言えなくもなかった。
その思いがあったから、話しかけることはなかったのかも知れない。
いや、それは言い訳で、実際には話しかける勇気がなかっただけだ。話しかけたとしても、無視されてしまっては、元も子もないと思ったからだ。
人によっては、
「相手の気持ちを確かめないくらいなら、無視された方がまだマシだ」
という人もいるだろう。
だが、正樹はそれを嫌った。あくまでも体裁を繕ったと言えるのだろうが、正樹はそんな自分が嫌だった。
高校生になって、急に同級生の女の子を眩しく感じるようになった。正樹の入った高校は、家から結構離れたところにあり、同じ中学から進んだ友達も少なかった。
――高校生になったら、リセットしたい――
という思いがあったからだ。
中学時代までの自分とは違う自分を前面に出していきたいと思うようになり、そのためには、中学時代までの自分を知っている人のなるべく少ないところがいいと考えたのだ。
実際に、正樹と同じ中学から進んだ人はほとんどおらず、皆新しい顔ぶれで、新鮮な気がした。新入生の頃はよく声を掛けてくれたが、正樹の方からは相変わらず声を掛けることもできず、一人でいることが多かった。
さすがにそんな人に何度も声を掛けてくれる人もおらず、次第にクラスでも浮いてくる。そのうちに一人の女の子を気にするようになっていた。
彼女は、決して美人というわけではないが、一言でいえば、
――頼りないのある女性――
と言えるだろう。
口数は少ないのだが、クラスの皆から一目置かれていて、文化祭や体育祭などの行事になると、自然とクラスを纏める役を担っていた。一つのクラスに一人はいるという存在なのだろうが、正樹には眩しく見えた。頼もしさがいつの間にか憧れに変わっていて、声を掛けることもできないくせに、彼女をじっと見つめていた。
そんな雰囲気は、表から見ると一目瞭然で、まわりの人は分かっているくせに何も言わなかった。正樹が自分から口を開くことがないと分かっているからなのだろうが、それまで正樹を無視してきた連中が、にわかに正樹を気にするようになっていた。
正樹はそんな事情を分かっていなかった。ただ、まわりの視線を感じるようにはなっていて。それがどうして急に視線を浴びることになったのか、分かっていなかった。
正樹が気にしていることで、彼女は迷惑をしていた。
「何で何も言わないのよ」
と、業を煮やした彼女にそう言い寄られ、何も言えずにただ狼狽するだけの正樹に、彼女はため息をついて、
「もういいわ」
と、呆れかえったかのように踵を返して、その場から立ち去った。
その後ろ姿が正樹には凛々しく見えて、罵声を浴びせられたことよりも、彼女が自分からどんどん遠ざかっているように思えて、その方が辛かった。
彼女も一匹狼なところがあった。人と群れることを嫌い、集団には決して属さない。ただそんな彼女だからこそ、クラスが一致団結しなければいけない時の旗振り役を買って出るのだった。
それが彼女の天職でもあるかのように思えて、
――楽しんでやっているんだ――
と思っていたが、実際にはそうではなかった。
彼女も友達がほしいと思っているにも関わらず、まわりが彼女に近づいてくれない。正樹のように避けられているわけではないが、彼女の場合は、近寄りがたい雰囲気を醸し出しているという意味で、正樹とは正反対だった。
だが、友達がほしいという思いは、絶えず持っているわけではなく、ふとしたことで感じる思いの中に、
――友達がいたら、いろいろアドバイスしてくれるだろうに――
と感じたりした。
彼女は友達というものを割り切った考えで捉えていた。
「友達というのは、お互いが成長しあうために必要なもので、成長のない友達ならいらない」
とまで考えていた。
そういう意味では、正樹のような相手が一番友達にふさわしくない相手だろう。
――百害あって一利なし――
と思っているかも知れない。そう思われているとすれば最悪だ。
そんな相手だからこそ、正樹は意識していた。今まで正樹は、
――自分のことを意識してくれる人など、いるはずがない――
と思っていた。
もちろん、最初からそう思っていたわけではないが、そう思うことで自分のハードルを自然と下げ、いつ言い訳してもいいように感じることが正樹の通常時での発想の原点になっていた。
だが、彼女は正樹のことを意識していた。悪い方への意識であるが、正樹もそれくらいのことは分かっていた。だがそれでも意識してくれるということは喜ばしいことで、彼女にだけでいいから、心証がよくなるようにならないかと考えるようになった。
相手を意識するということはどういうことだろう?
異性を意識するというのは、その先に恋愛感情というものが生まれるかどうかで変わってくる。正樹は彼女のことを意識するようになってから、それが恋愛感情に結びついてくるものだと思っていた。
だが、実際には恋愛感情に結びついていたわけではない。確かに彼女の頼りがいのあるところは頼もしく感じていたのだが、恋愛感情とは違っていた。