感情の正体
史実としては、敵に滅ぼされてしまう悲劇の武将が、主人公の登場によって、華麗に歴史上で躍動し、本来であれば討死してしまうはずの史実を、根本から覆すようなそんな小説……。それを正樹は好んで読んだ。
同時入院患者の中で、歴史に興味を持っている人がいて、その人は大学生だったが、正樹とは妙にウマが合い、歴史の話をよくしていた。正樹が時代小説を読むようになったきっかけも、その人と話をしたことから始まっていた。
「正樹君は、歴史上では誰が好きなんだい?」
と最初に聞かれて、正樹は返答に困っていた。
戦国時代は好きだったが、武将の中で誰が好きという発想はなかったので、返答に困った。それで誰もが答える有名武将ではない、ちょっとくせのある武将の名前を口にすると、
「おお、それはさぞや興味をそそられることだろうね。実は僕もその武将に造詣が深いんだ。彼を題材にした小説を何冊か読んだことがあるよ」
と言っていた。
その武将は大名でのなく、軍師のような存在でもない。いわゆる外交に長けている人で、他の国との交渉には必ず出かけていった。そんな武将だった。
「目立たないんだけど、彼の存在がなければ、歴史は今とはかなり違っていたかも知れないね」
と大学生のお兄さんは言っていたが、正樹もその意見には賛成であった。
その大学生は、大学でも歴史学を専攻していた。史実に関してはかなり研究を重ねていて、正樹が質問したことに関して、完璧に答えていた。
中途半端な知識を持っている正樹の質問くらいなら、完璧に答えるくらいはそれほど難しくないと思っているそのお兄さんは、
「本を読むなら、最初は時代小説から入るのもいいかも知れないね」
と言っていた。
「時代小説?」
「ああ、時代小説だよ」
「時代小説って、時代劇の小説のことでしょう? 僕は江戸時代のいわゆるチャンバラのような歴史に興味はないんですよ」
というと、
「いやいや、時代小説というのはそういう意味ではないんだ。歴史を題材にした小説には大きく分けて時代小説と、歴史小説があるんだ。最近ではその区別も曖昧になってきてはいるんだけど、その違いは歴然としているんだよ」
「どういうことですか?」
「基本的に、史実に基づいて、歴史上の人物や事件を描いたのが歴史小説。そして、史実に乗っ取ってはいるが、人物や事件が架空の物語として存在するのが時代小説というジャンルになるんだ」
「なるほど」
「もっとも、そこまで厳格な違いがあるわけではない。時代小説と言っても、実在する人を主人公にしている場合もあるし、事件や戦は実在するもので、登場人物の個性によって、事件た戦の結末が変わってしまうものも時代小説なんだ。エンターテイメントとして読むのなら、そっちの方が面白く読める。時代小説というのは、そういうものなんだよ」
「歴史小説というのは?」
「そうだな、一種のドキュメンタリーとでも言えばいいか。テレビなどで一人の武将をテーマにして、その人の偉業を時系列で紹介する番組があるが、それを小説にしたのが、歴史小説と言ってもいいんじゃないかな?」
正樹はそれを聞いて、
「なるほど、じゃあ、歴史小説と時代小説というのは、ハッキリとした色分けに理由があるのだけど、その境界は曖昧で、時代小説の歴史小説とでは、同一の空間で存在することもできるような認識でいいんでしょうか?」
と、正樹がいうと、
「そんなに難しく考える必要はないと思うけど、基本的にはその考えで正しいと思う。要するに歴史小説であっても、時代小説であっても、読む人が求めているものが見つかればそれでいいと思うんだ。それは歴史小説、時代小説にこだわるわけではなく、どんな小説にも当てはまるというものではないのかな?」
と、お兄さんは答えた。
正樹はお兄さんに言われた通り、時代小説を手に取って読んでみた。
「へぇ、結構面白いんだ」
と、声に出して言ってみたいくらいに興味をそそられた。
しかし、その反面、
「歴史を実際に知っていた方が、もっと面白く感じるかも知れないな」
という思いもあった。
お兄さんがいうには、歴史小説は史実に乗っ取ったものだという。歴史小説のコーナーに行ってみると、なるほど史実に乗っ取ったような本がたくさん置いてあった。
それは新書というよりも文庫が多く、内容としては、一人の武将をテーマにしたまるで伝記のような小説であったり、一つの事件を元に、その歴史の前後を解説している話だったりする。
正樹はまず自分の興味を持った武将の話を読んでみることにした。先日、奇しくも口にした武将の本もそこにあり、
「よし、本当に詳しくなってやろう」
とばかりにその本を買って、実際に読んでみた。
歴史に関しては中途半端な知識しかなかったので、読んでいてもところどころ分からないところもあったが、スマホという便利なものが普及してきた時期でもあったので、本を読みながら、分からない言葉を検索していた。
幸い入院しているので時間はたっぷりとあった。こういうことに使う時間というのは結構楽しいもので、時間の経過を忘れるくらいに没頭していたりしたものだ。
そのおかげで一冊を読破するまでに少し時間が掛かった。まだまだ時代小説に手を出すまでにはいかなかったが、何冊か興味のある武将の話を読んでみると、それまで知っていると思っていたその人への印象が、結構変わってくるというものだ。
カリスマ性だけが先行し、独裁的で恐怖を煽る武将が、実際には繊細で、計算尽くされた計画の元、次第に天下に近づいていく状況を描いていたり、逆に繊細で計算尽くされた策士というイメージの強い武将が、実際には大胆で、思い切った戦略を用いる人だったりと、自分の中の常識を大いに啓発してくれる話もたくさん載っていて、読んでいて飽きることはなかった。
入院生活の半分は読書に時間を費やしていた正樹は、学校の勉強が遅れてくることへの焦りはほとんどなくなっていた。
親や先生の心配をよそに、いつも本を読んでいる正樹を、叱るわけにもいかず、まわりの大人は困惑していたに違いない。
正樹は、すでに学校の勉強に興味を失っていた。
進学校にせっかく入学できたのに、いつの間にか落ちこぼれのように見えていた親は、心配しているのか、それとも情けなく思っているのか、どちらが強いのか自分たちで分かっているのだろうか。
正樹は、最初親の様子を見た時、
――情けないと思われている――
としか感じなかった。
その思いがあったからこそ、入院中に勉強をしようとは思わなかったし、どうせ情けないと思われているのであれば、落ちこぼれてもいいと思っていた。
元々小学生の頃は落ちこぼれだったのだ。途中勉強を好きになって、進学校に入学はできたが、しょせんはそこまでのことである。
――時間をぐるっと一周して、また元の場所に戻ってきただけなんだ――
と感じた。
一周はしたが、その間別に遠回りをしたわけではない。それまで知らなかった世界を垣間見ることができたというのは、言い訳のようだが、言い訳であっても、事実に基づく言い訳であれば、
――それはもはや言い訳とは言わないのではないか――
と、正樹は考えていた。