感情の正体
ただ、正樹は絶えず何かを考えている少年だった。
病院のベッドで誰かが来るのを待っている時も、いろいろと考えを巡らせていた。何を考えていたのかなど覚えているはずもなかったが、カーテン越しに見える表の見ながら、目が慣れてくるのを待っていた。
眩しさにも目が慣れてくると、表のすぐそばに一本の木があるのに気がついた。季節は春だったので、新緑が芽生えている時期だったに違いない。
花が咲いているわけではなかった。桜の木ではないことは分かったが、それが何の木なのかは分からなかった。
「誰かに聞いてみればいいじゃないか」
と言われるかも知れないが、それはできなかった。
なぜなら、その木の存在は、誰かが戻ってくるまでのもので、部屋に入ってきた人を意識するために目線を逸らしてから、再度窓の外に意識を向けた時、すでにそこにはさっきまであったはずの木がなくなってしまっていた。
――そんなバカな――
と思ったが、さっきに比べれば意識は今の方が遥かにハッキリとしている。
そう思うと、
――さっき見た方が錯覚だったんじゃないか?
と思うのも当然のことで、正樹はもうそれ以上、その木を意識することはその時はなかった。
部屋に最初に戻ってきたのは、担当看護婦さんだった。
「お目覚めになりましたか?」
と、ニコニコしながらこちらを見ていたが、手はせわしなく動いていた。
――さすが看護婦さん――
と思わせるほどで、いまさらながらに看護婦というのが職業であることを思い知った気がした。
だが、入院などしていると心なしか心細くなるものなのか、看護婦さんに癒しが感じられた。
「ええ」
と言って、看護婦と目を合わさないようにしたつもりだったが。まるで吸い寄せられるようにその目を見ないではいられなかった。
いや、正樹はウソを言った。実際には癒しを受けたくて看護婦と視線を合わせた。彼女の表情がどのように変わるのか見てみたいという衝動に駆られていた。
正樹は看護婦がどんな表情をするかを自分なりに想像していたが、本当であれば、
――想像通りの表情をしてほしい――
と感じるのであろうが、その時の正樹は、
――自分の想定外の表情を見てみたい――
という思いに駆られていた。
それは、いたずら小僧になったような気分でもあり、自分が天邪鬼であってほしいという思いに至った時でもあった。
正樹は子供の頃、自分が模範的な子供になることが一番なんだと思っていた。
親や先生からは、
「正樹君は、素直でいい子ね」
と言われたいと常々考えているような子供だったのだが、実際の心根では、まったく違うことを考えていた。
正樹は、自分が納得したことでないと信じないという性格があった。それは、性格の根底にこびりついているようなもので、その考えが強いからか、学校の成績は決していいものではなかった。
算数など、結構早い時期から落ちこぼれていた。授業を受けていても気持ちは上の空だったのだ。
その理由は、一番最初から引っかかったことだった。
「一たす一は二」
というのは、算数では一番の大前提となっている。
このことを理解できていないと先に進むことはできない。学校の先生は、すべての生徒がそのことを理解していると思って授業を進めているので、まさか理解できていない生徒がいるなど知る由もないので、その後の正樹が算数の成績が伸びないことがどうしてなのか理解できるわけもなかった。
「どうして、分からないの?」
あまりにも成績が悪いので、正樹だけ個人授業を受けたことがあったが、正樹は一言も喋らなかった。
「どこが分からないか教えてもらわないと、先生も教えようがないわ」
と言うが、正樹としては、
「最初から」
としか言いようがなかった。
まさか先生も本当に最初から分かっていないなどと思っていないので、正樹のその言葉を理解できなかった。
――この子はどこが分からないか自分で分かっていないので、最初からという表現しかできないんだ――
と、正樹の言葉を否定して考えた。
しかし、正樹は本当のことを言っているのだ。正樹としては本当のことを言っている以上、それ以上どうしようもない。先生も凝り固まった頭を拭い去らなければ、二人の間の溝が埋まるわけもなく、下手に刺激したことで、余計に溝は深まるばかりだった。
だが、正樹が算数を理解するようになったのは、まさに偶然のたまものだった。
しかも、それは算数とは直接関係のあることではなかった。ひょんなことから自分の考えていることに算数の理屈が入り込み、
――これって算数の考え方なんじゃないだろうか・
と感じたことで、それまで理解できなかった算数が瓦解されていくのを感じた。
――算数って、こんなに面白いんだ――
と思うと、それからの正樹の考えることは算数が増えていった。
元々整数の考え方では。均等の距離にあるものの法則だから、ちょっと考えればいくらでも法則性に気付くこともある。いくつかの数字の法則性も、まったく違う法則性で証明することができる。
「算数って、答えは一つでもそれを導き出すのにいくつもの考えがある。そのすべてが正解なのよ」
と先生が言っていたが、算数が好きになった正樹はその言葉が理解できるようになっていた。
算数が好きになると、勉強するのが面白くなってきた。それまで嫌いだった学科にも興味を持ち、毎日の反復が楽しくて仕方がなくなった。
復習ばかりをずっと繰り返してきたおかげで、少々の問題に対しても応用性が働くようになり、特に理数系に対しては、閃きが素晴らしいと言われるようになった。
一つのことに秀でてくると、他のこともうまくいくようになるもので、暗記科目も覚えられるようになった。
「要領が分かってきたんだろうな」
と先生が言っていたが、まさしくその通りだった。
五年生になる頃からやり始めた勉強だったが、六年生になる頃には、
「どこかの進学校に進学したい」
と思うようになった。
受験することで自分の実力を試してみたいし、何かの目標を持って勉強することの喜びを知ったことが、正樹をその気にさせたのだ。
進学校を目指すには少し遅すぎるかも知れなかったが、学校の先生ともキチンと話し合い、今からでも間に合う進学校を選定することで親も説得できたし、親としても、息子が勉強に目覚めてくれたのは嬉しかったようで、受験に対しての障害は何もなかった。
正樹の目指した学校は、進学校と言っても、ランクが上の方の学校ではなかった。ただ算数などの理数系を熱心に教育しているところだということは評判でもあったので、
「工藤が目指すにはちょうどいいかも知れないな」
と先生も言ってくれた。
六年生になってから受けた模擬試験の成績でも、志望校への合格圏内であった。もう一つ上のランクの学校も視野に入れていたが、少し危険をともなうということで、最初に目論んだ学校が一番無難だということで、そこを受験することにした。
さすがに先生からも楽勝に近いとまで言われていただけあって、試験もそつなくこなせた。
「これだったら、合格できる」
と、正樹も試験の手ごたえは十分だったので、それほど発表までに心配はしていなかった。