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感情の正体

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 という言葉を正樹が口にすることはありえない。
「正樹とだったら、好きになった女の子がバッティングすることはないので、気が楽だ」
 と他人に言わせるだけの感情は持っていた。
 正樹は、友達というものに対して、
――相手に譲るのが本当の友達だ――
 という考えを持っていて、自己犠牲の中で友達との関係が成り立つのだと思っていたのだ。
 その考えは小学校を卒業するくらいまで持っていた。
――友達になってもらうんだから、こっちから近づいていかないと――
 と考えていた。
 だが、実際に友達になってしまうと、自分が相手にこびているということが分からない間はそれでもよかったのだが、こびていることに気付いてくると、自分のような人間を、実は一番嫌いだったということを理解してしまった。
――俺って、一番嫌いな人間に、いつの間にか近づいていたんだ――
 と思うと、自己嫌悪が激しくなってきた。
 友達がいないというのは、自分から友達を避けてきたというのもあった。
 自分がまわりにこびてしまうと、まわりはこびる相手を、
「利用するだけ利用してやろう」
 と思うものだと考えてしまった。
 最初は、
――そんなことはない――
 と自分に言い聞かせてきたが、少しでも自分を利用しようとしている素振りが見えると、すべての人がそんな目で自分を見ているような錯覚を受ける。
 実際には、一部の人間の、しかも一時的な感情でしかすぎなかったのかも知れないが、いったん垣間見れた溝は、なかなか埋めることができずに、決定的な結界を作ってしまうことになりかねなかった。
 その結界という溝は、一度できてしまうとなかなか埋めることができない。なぜなら、その溝の存在を知っているのは本人しかいないからだ。
 しかも、本人にその自覚があるのかというと、ほとんどの場合は自覚がない。友達ができないことも、自分に非があるという意識を持っていながらも、その理由を、
「うまが合う人がいない」
 であったり、
「友達なんかほしくない」
 という開き直りであったりして、何とか自分を正当化させようとする意志が働いてしまうのだ。
 その頃から、
――俺は天邪鬼なんだ――
 と感じるようになった。
 天邪鬼という発想も、ある意味自分を正当化するための手段として用いられることがある。まさか自分が正当化するために天邪鬼だと思っているなどと最初は思わなかったが、天邪鬼だと感じるようになった理由に、開き直りが影響しているということを自覚すると、正当化という意識へと結びついてくるのだった。
 正樹の思春期は、他の男子生徒に比べれば遅かった。皆中学二年生くらいまでに思春期を迎えていたが、正樹にはその兆候はなかった。
 正樹が考える思春期というのは、いくつかあるが、そのうちの大きな部分として、
「親に対しての反抗期」
 というものと、
「異性への感情」
 というものの二つに凝縮されるような気がしていた。
 ただ、この感情は正樹だけではなく皆が持っているものなのだろうが、それは避けることのできない共通の考えだと思うと、
「人と同じ考えでは嫌だ」
 と考えている正樹だったが、皆が認めるものをも否定する気持ちは持っていなかった。
 あくまでも、中心は自分であり、最初から決まっていることをいくら自分中心とはいえ、覆すことのできないものを無理にでも変えることなどできないことくらい分かっている。それを曲げてしまっては、独りよがりの自己中心的な考えでしかなくなってしまうからだ。
 そんな正樹が異性に興味を持った時期が他の男子生徒よりも遅かったというのは、それだけまわりを見る時間があったというよりも、まるで他人事のように見ていながら、羨ましさも含んでいたという複雑な心境の元にあったことを意味している。
 クラスメイトの男子は、異性に興味を持っているというのを、卑猥な雑誌やDVDなどを見て、その話に興じている。その表情には淫靡な笑みが浮かび、さらにはニキビ面という汚らしい顔が浮かんでいた。
 自分の顔をその頃の正樹は鏡で見たことがなかった。鏡を見るのが怖かったと言えばそれまでだが、なぜ怖いと思ったのかというと、鏡に写った顔に見つめられた自分が、
「こんなの俺の顔じゃない」
 と言って自分の顔を否定するのが怖かった。
 自分の顔を否定することで、それまで抱いていた自分のイメージをすべて打ち消してしまいそうで、そうなると、浮かんでくるのは目の前に写っている自分という人格である。決して認めたくない鏡に写った自分。その表情を見ていると、何とも言えない答えが、鏡に写った自分から返ってくるような気がした。
 正樹は、友達との競合を避けようと思うようになった。それは友達への遠慮と言ってしまえば聞こえはいいが、競合することで負ける自分を見たくないという思いが強かったからだ。
 人への遠慮だと考えていたのは正樹本人だけであって、まわりの人は謙虚さというよりも、正樹の逃げにしか見えていなかった。
「まるで現実逃避」
 と思われていたのではないかと後になってから感じるが、後になって感じるということは、その時の鏡に写っていたもう一人の自分は、
――将来の自分だったのではないか?
 という考えも浮かんで来たりする。
 そんなことはありえないと思いながらも完全に否定できないのは、それだけその頃の自分に自信がなかった証拠でもあるだろう。
 その頃の自分は、
――現在過去未来と存在している中で、現在は過去よりも優れていて、未来は現在よりも優れている――
 という考えを絶対的なもののように受け止めていた。
 理想論であることは分かっているが、理想だけがその時の正樹の自信を支えていた。
 いや、支えるなどという言葉はおこがましい。理想がなければ、正樹に自信などという言葉を語るだけの資格はないと思えたのだ。
 ただ、過去から続く未来への進化が、正樹の中で明らかに存在しているという意識はあった。
 その意識がなければ、自分という人間の存在すら否定してしまいそうな感覚でもあったのだ。
 正樹は普段から、
――自分には甘い――
 と思っていたが、否定的なことに対しては、考えているよりもよほど厳格な考えを持っていたのではないだろうか。
 正樹にとっての思春期は、他の人の思春期とは違っていた。他の人に比べて遅いのもなんとなく分かる気がする。
 だが、遅かったことでそれが正樹のためになったのかというと一概にはそうだと言いかねない。むしろ、正樹の性格を形成するうえで、悪い方の性格を決定づける役目を担ったという意味で、罪に当たるものではないかと思えた。
 正樹の悪い性格は、生まれ持ったものとして、逃げに走るところであろうか。
 人に対して遠慮だと思っていることが実は逃げに当たるという考えは持って生まれたものであり、正樹の中で自覚できるものだったに違いない。
 そして、
――仕方のないことなんだ――
 と、持って生まれた性格は変えることのできないものとして、正樹の性格の根底に蠢いているものとして比類なきものであると考えた。
 思春期になって気付いた自分の性格で、
――過去よりも現在、そして未来に続く時系列は、絶対的な成長を意味しているものだ――
作品名:感情の正体 作家名:森本晃次