感情の正体
――言っちゃいけないって、どういうことなんだ? せっかく教授になったんだから、別に恥ずかしいなんて思いがあるわけでもない。おかしなことをいう――
と思っていた。
だが、父親としては、単純に恥ずかしいという思いが強かっただけだ。それは、助教授の時代には感じたことのないもので、教授になると、教授という肩書がついて回る。
「教授なんだから、それなりの風格を持っていないと」
と、まわりから言われて、それまで感じたことのない教授の風格が何なのか、いまさらながらに考えなければいけない自分の立場に、教授になれたことの喜びも半減してしまった。
まわりはそんな父親の気持ちを分かっているわけではないので、手放しに教授になったことを祝おうとしてくれる。そこに自分の感じている教授への思いと、教授という席の重みとのギャップに悩むことになった。
だからこそ、余計なことを言わないでほしいと思うのだろう。下手をすると、
「俺は教授になりたくてなったわけではない」
と言いたげないからだった。
確かに教授になれるものならなりたいという思いはあったが、それは単純に年功序列でなれる教授の椅子だと思っていたからだ。
もちろん、年齢だけでなれるものではないことは分かっている。しかし、普通に大学で助教授を続けていれば、無意識な努力であっても、それが普通に実を結ぶと考えていたからだ。
それなのに、自分の意志に逆らってまで、教授という椅子に本当にしがみついていたいものなのだろうか? まわりとのギャップがそのまま悩みになって苦しむくらいなら、正直な気持ちを近親者には打ち明けて、楽になった方がいいと思っていた。
そんな父親の心の動きを、内容まで分かるはずはなかったが、その友達は理解していたようだ。
だから、決して大学教授の父親がいることなど、誰にも言っていない。
友達は父親がどうして教授になったことを他の人に言わないでほしいと言ったのか、ずっと考えていた。絶えず深く考えることはなかったが、無意識に考えることほど、自分の知らないところで深く考えていることはない。
正樹はその友達を見ながら、その後ろに誰かの影を感じていた。それが彼の父親であることを分かった時、彼の表情が急に情けなさそうに写ったのを感じていた。
――俺に何かを看破してほしくないのかな?
さっきまで人と目を合わすことすら避けていた彼が、その時の正樹をじっと見つめている。
別に哀願しているわけではないのだろうが、願っているというよりも、祈っていると言った方がいいのではないかと思えてならなかった。
願っているという感情は、自分に対してのものというよりも、他人に対してのもの。それに比べて祈っているというのは、他人に対してではなく、ガチで自分のことだということを示している。
彼は、父親のことを抱えていたわけではなく、父親を背景にして、自分の悩みを抱えていたのだ。後ろに父親を控えさせることで、その思いを願いのように感じることで、自分の思いを正当化させようとしているようだ。
だが、この思いこそ、彼が感じたことではなく、教授になったことで悩まなければいけないことへの理不尽さを感じた父親の思いが、彼の中で交錯していたに違いない。
そんな彼がどうしてもハチのことを口にしたかったようだ。なるべく視線を合わせないようにしていたのも仕方のないことだろう。
友達は無意識にだが、予防線を張るということを意識していたのだろう。自慢をしたいという気持ちよりも、教授だということで、まわりから何でも分かる人なんだという思いを抱かれるのが嫌だった。
何でも分かるということは、
「分かって当然」
という思いもあれば、相手にとって、
「知られたくない」
という部分をほじくり返させると考える人もいるだろう。
同じ言葉でも、ニュアンスはまったく違う内容に、予防線を張りたくなる気持ちも分からなくはなかった。
正樹がそのことに自分で気付いたのはいつくらいのことだっただろう。少なくとも小学生の時代には感じたことのないものだった。
中学生になって、同じ表現でも、実際に受け取る人の違いでまったく違った印象を与える言葉への対応に苦慮するようになった。自分からそういう状況に持っていくことはなかったが、まわりから与えられてしまうことがほとんどだった。
そんな時、ほとんどの人が予防線を張っていて、正樹はその時、
――予防線を張るくらいだったら、何もわざわざそんな状況に持っていかなければいいのに――
と感じるのだった。
だが、そんな状況は裏の事情で、表では、自分を自慢できる絶好の場面だったりした。それまで表に出ることのなかった人が表舞台に進出できる絶好の場面。それを逃す手はないと誰もが考えたのだろう。
正樹には、中学時代までにそんな場面は訪れなかった。やっと思ずれたと思ったのは、高校になってからで、その時正樹には、好きになった女の子がいた。
その女の子は、誰もが憧れるような女の子で、正樹としては、
「笑顔に魅了された」
と思っていた。
そんなことを言えるのは自分だけだろうと思っていたが、彼女の人気の秘密は、誰が答えても、その笑顔を外す人はいなかった。
――なんだ、俺だけが思っているわけじゃなかったんだ――
と思うと、急に好きになった気持ちに影が差してくるのを感じた。
笑顔は確かに素敵だが、最初に感じたセンセーショナルな感情はどこかに行ってしまっていた。まわりの男子が皆自分と同じ発想を抱いていたことを知った瞬間から、正樹の中で何かが弾けたのだった。
その時、友達が言っていた、
「俺のお父さんは自分が教授になったことを内緒にしていてほしいって言っていたんだ」
という言葉を思い出した。
その友達は正樹にだけ打ち明けてくれていたようで、それはきっと正樹の口の堅さと、正樹が自分のこと以外に、余計な関心を持つことがないということを分かってのことだったようだ。
正樹は、その時、自分が皆の人気者である女の子が好きになったということを公表しないでよかったと思った。
もし、公表していれば、引っ込みがつかなくなって、下がることができず、行くところまでいくしかないと思い、玉砕も致し方ないとしか思えなかったに違いない。
それは自分がまわりに体裁を繕いたいという思いがあったからに違いない。自分のプライドを捨てて、前言撤回もやむおえないと思うくらいでなければ、本当はいけないのだろうと思っていた。
しかし、正樹はその時、そんな考えは頭の片隅にもなかった。
正樹は猪突猛進のところがあって、自分が思い込んだこと以外は、頭の中にイメージすることすらできないでいる。それは猪突猛進というべきなのか、自分に素直だというべきなのか、正樹はいいように自分で解釈していたようだが、まわりはそれほど彼に同情的ではなかっただろう。
好きになった女の子は、程なく別の男子と付き合うようになった。それはまわりが認めざるおえないような理想のカップルで、男の方も女子だけではなく男子からも人気のある男子生徒だったので、
「あいつが相手なら仕方ないか」