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感情の正体

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 ただ、子供の頃から、よくケガをしていた。入院するほどの大きなケガではなかったが、絶えず外科には通っているというくらいだった。骨を折ったことも何度かあったし、骨にひびが入ることくらいは年に何度かあった。一か所が治ると、待っていたかのように別の場所をケガすると言ったこともあり、まわりの人からみれば、かなりどんくさい男の子に見えたことだろう。
 だが、同じ失敗をしたことはほとんどなかった。骨にひびが入るという結果から見れば同じ症状でも、その場所は明らかに違っている。もっとも同じ個所を間髪入れずに骨に異常をきたせば、完治するということはないのではないだろうか。
 病院の診察室にある簡易ベッドに寝かされると、身体が飛び跳ねるような衝動に駆られたものだった。条件反射によるものなのだろうが、それに起因する現象は思い浮かばない。ただ、ベッドの上に乗せられると、急に麻酔薬のような刺激臭がしてくるのを感じた。ホルマリンのような臭いは、理科の実験でやった、「フナの解剖」を思い出させた。
――どうして、あんな臭いを思い出してしまうんだろう?
 そこが病院だから、薬品の臭いがするのは当然なのだが、普段はどこからもそんな臭いがしてくることはない。昔の病院ならいざ知らず、今の病院では薬品の臭いを意識してしまうのは、歯医者さんくらいであろうか。そう思うと、鼻を突いてくるきつい臭いの正体が、本当に薬品によるものなのかどうかすら、怪しい感じがするのだった。
 臭いは明らかに鼻を突いてくる、身体も条件反射のごとく、エビ沿ったかのように飛び跳ねると、今度はまわりが真っ暗になり、目が慣れてくるまでの数秒が、まるで数分くらいに感じられて、真っ暗闇の恐怖すら、マヒしてしまいそうになるくらいだった。
 そんな時、次に感じてくるのは、真っ赤なライトだった。真っ暗な中で目が慣れてきているにも関わらず、そのライトはダークな赤色をしていた。
「これって、救急車のライトの赤い色だ」
 ということに気付くのは必然的だった。
 救急車のパトランプがクルクル回っているのを想像しただけで、身体が痛くなってくるほどの条件反射を持っていることは自覚していた。
 グルグル回るその先に何が見えているか、正樹はそこに人影を感じたのだ。
 誰もいないはずのそこに現れた人影、それはパトランプのように、クルクル回っていなければ見ることのできない錯覚であるに違いない。
「錯覚というものは、見る本人が意識していることを前提とし、それでも本人が見えるであろう当然と思える光景とは違った光景が目の前に飛び込んでくることで、混乱してしまう精神状態のことをいうのではないか」
 と、正樹は思うようになっていた。
 ただ正樹がその時に感じた赤い色は、暗い色であったが、濃い赤であり、そこには黒い影が背後に鎮座しているように見えた。真っ赤なその色は、見たことがあったような気がした。
――思い出さなければいけない――
 と思いながらも、
――思い出せるわけないんだ――
 という矛盾した考えを持っていたが、そこに存在するのは、子供であっても、大人になってからも最初に想像するものであったのだ。
「ああ、これは血の色だ」
 そう思うと、思わず嘔吐を催してきたのを感じた。
 必死で手で口元を抑えようとしているのだが、それは出るものを抑えようという思いよりもむしろ入ってくるものを遮断しようという思いが強かった。
 入ってくるものというのは、もちろん臭いのことだ。どんな臭いなのかは、その瞬間に立ち会わないとハッキリとは分かるはずはないが、想像くらいはできる。
――鉄分を含んだ血の臭い――
 それをどこで嗅いだのかハッキリと覚えてはいないが、最初の条件反射で感じた薬品の臭いよりも信憑性があった。
 鉄分の臭いをどうして知っているのかというと、ケガをする中で、たまにひじや腕をすりむいたりすることがあり、その傷口に感じられた臭いが、無意識に頭の中に蓄積されていたのではないだろうか。
 正樹は、血の臭いが病院の薬品の臭いを感じさせたり、受け身になった時に感じさせる錯覚を呼び起こす原動力のようなものではないかと思うようになっていた。
――血の色もパトランプも、奇しくも赤い色なんだ――
 と感じた。
 鮮血の色は変えられないが、パトランプの色は変えることができる。昔の散髪屋の前にあった赤と青、そして城のコントラストの中の赤が、血をイメージしているということを思い起こさせた。
 大人になってからもちょくちょく思い出す光景だった。
 高校生になってから、授業中に転寝をしていると、気が付けば熟睡していたようで、夢を見ていた。
 夢の内容までは覚えていないが、目が覚めてからも鼻を突くツーンとした臭いを感じた時、それがアンモニアの臭いであることは、高校生になっているので分かったことだった。
「アンモニアって、昔はハチに刺された時の特効薬で使っていたって聞いたことがあったよ」
 と、クラスメイトの誰かが言っていた。
 するともう一人が、
「ハチの毒には、ギ酸という酸性の毒が含まれているので、アンモニアというアルカリ性で中和させることによって、ハチの毒への特効薬になるっていうことらしいよ」
 正樹は心の中で、
――そんなことくらいは知っているさ――
 と思っていた。
「でも、ハチに刺されると本当に死んでしまうんだな」
 と、他の人がおもむろに口を挟んだ。
 会話に入ったというよりも、会話に参加したというわけではなく、ボソッと呟いただけだった。その人は普段から自分の意見を言っても、誰かに聞かせようという雰囲気ではなく、ただ呟いているだけだった。
「あいつは、本当は会話に入りたいんだぜ」
 と思っている人は少なくないが、本人が少しでも協力的ではない限り、まわりはどうすることもできなかった。
 もっとも、自分から参加しようと思ってもいないやつを、会話に入れる義理などどこに存在するというのだ。その人が参加しようという意思を示してくれてこそ、会話を構成している仲間に入れることができるのだ。意思を示さないと、まわりが考えることはすべてが、
――余計なこと――
 でしかなくなってしまうのだ。
 ハチの会話だけが印象に残っているが、彼は生物学だったり、化学関係の話には結構うんちくを傾けていた。他の話に印象があまりないのは、きっとその時だけでその話が終わってしまっていたからであろう。ハチの話には続編があり、その時の彼の立場は、中心人物的な様相を呈していたのだ。
 後で知ったことだが、彼の父親は大学で生物学の教授をしていた。まだ教授になってそんなに時間が経っているわけではないので、
「お父さんが大学の教授だということを、あまり学校で話さないでくれよ」
 と言われていた。
 彼は父親を尊敬していた。
 子供から見ても卓越した頭脳明晰が感じられ、いつも背中が無言で自分を引っ張って行ってくれているように思えたのだ。
 だが、そんな父親から、自分が大学教授であることを言わないでほしいと言われたことに対して、どう判断していいのか、苦慮していたのだ。
作品名:感情の正体 作家名:森本晃次