感情の正体
お弁当タイムから一緒に歩いている女の子も、正樹と同じように、冷静であった。他の生徒も皆静かではあったが、それはあくまでも疲れているからであって、正樹や彼女とは明らかに違っているように思えた。
「美咲ちゃんは、どうしてそんなに落ち着いているの?」
と、正樹は思わず聞いていた。
「落ち着いているように見える? でもそう見えるかも知れないわね」
と、美咲は言ったが、最初はそれがどういう意味なのか分からなかった。
「私は正樹君の方が落ち着いて見えるような気がするのよ。たぶん、私とは違った意味での落ち着き、だから、あなたが気になったのよ」
と美咲は続けた。
「僕は、美咲ちゃんが違っているようには思えないけどな。といって、俺がどういう状態なのか、説明できるわけでもないんだけどね」
と正樹は答えた。
「ねえ、正樹君は今までこんなお話、誰かとしたことがある?」
と聞かれて、
「いいや、こういうお話をしたことはないよ。こういう話をする相手もいないしね」
と答えると、
「そうでしょうね。私もまさかこんな身近に声を掛けられる人がいるなんて思ってもみなかったわ」
「美咲ちゃんは、誰かに声を掛けたいと前から思っていたのかい?」
「ええ、私も実は今の正樹君のように、他の人から声を掛けられたのよ。その時に、いずれ私も今声を掛けられた時のように、今度は自分から声を掛ける立場になりたいって思うようになったの」
美咲の言っていることは、要領を得たわけではない。
だが、
――もし、彼女の言いたいことが分かるとすれば、それは俺しかいないだろうな――
と感じた。
「美咲ちゃんに声を掛けてきた人というのは、どういう人なの?」
と聞くと、
「それが分からないのよ。その一度出会っただけで、どこの誰だったのか、何を言われたのかすら覚えていないのよ」
「まるで夢でも見ていたかのようじゃないか?」
というと、
「そうは思いたくないけど、今ではそうだったんじゃないかって思うようになったわ。だって、今ではその記憶もあいまいになってきたからね。それでも誰かに声を掛けたいという思いは変わっていなかった。むしろその人の意識が薄れてくるにしたがって、次第にその思いが強くなってくるような気がしたのよ」
美咲はそういうと、少しまわりを気にしていた。
遠足でフリーということもあり、自分の近くに誰がいるか分からないという思いがあるからなのか。
しかし、こんな話を聞かれたとしても、小学生の子供が何を考えるというのだろう。美咲のことを気にしている人がいたとしても、きっと美咲への思いと、その時話している事柄とを切り離して考えようとするかも知れない。それが自然なことであり、無理もないことだと言えるだろう。
「私ね。小さかった頃に見た景色で忘れられないものがあるんだけど、それがどこだったのか、今となっては分からないの」
と美咲は言い出した。
「俺にもそんなところがあるような気がするんだけど、俺は小さい頃、他のところから引っ越してきたので、引っ越してくる前に住んでいたところだったんじゃないかって思うことで、そのことをあまり意識したことはなかったな」
「私も、小さい頃に引っ越してきたの。そして正樹君がいうように、今の話のように思い込もうとしたんだけど、どうしても納得がいかなかったのね。納得がいかなかったというよりも、いかせたくなかったと言った方がよかったのかも知れないわ」
正樹は、この話を大人になって思い出して、想像しながら考えていたので、実際に子供の頃に話した内容は、違っていたに違いない。
大人になってからの、子供の頃への願望のようなものが想像を妄想に変えることで、まるで大人の言葉づかいだったように思わせるのだろう。
だが、大人になったからの正樹は、
――子供の頃の方が、難しい言葉を平気で使っていたような気がするな――
と感じるようになっていた。
それは背伸びしているからだという考えではなく、自然と出てくる言葉の中に、チョイスを考える必要のない生の言葉が、次々に出てきただけのように思えてならないからだ。
「奇遇だね。二人は子供の頃、まったく別のところにいたんだね」
と話すと、
――ひょっとすると、その場所もお互い知らなかっただけで、実際には知り合うことのできるような場所だったのかも知れない――
と正樹は感じていた。
ただそれはまったくの願望であり、
――そうだったらいいな――
何がいいのか分からないが、信憑性のない発想に、正樹は無邪気に喜びを感じた。無邪気な喜びは、下手をすれば人を傷つけることもあるが、美咲と二人の間の無邪気さは、人を傷つけることはないだろうと思うようになっていた。
その後、美咲とは中学校も一緒だったが、仲良く話をするということはあまりなかった。どちらかが避けていたというわけではないが、お互いにどこかがよそよそしくなったと感じてしまうと、他の人との関係のように、
「そのうちまた修復できる」
とは思えなかった。
「一度こじれてしまうと前のように仲良くなることができない」
と思うと、それはそれで悲しいことだ。
だが、正樹には美咲との思い出は、子供の頃に話した不思議だけど、新鮮に感じられるあの時の感覚しか思い出せなかった。
もちろん、他の時の記憶も残っているはずなのだが、表に出すことができない。それだけ最初に感じたイメージが強烈だったということなのか、この思い出は、正樹の中のすべての思い出を引っ張り出しても、ベスト3には入るだろう。
正樹はその時のことを、
――受け身だった――
と感じるようになっていた。
正樹からも話をしていたし、会話もちゃんと成立していたのだから、受け身だったということはないはずである。正樹にとっての勘違いなのだろうが、美咲の方でもどうやら、
自分の方が受け身だったと思っているように思えてならなかった。
それを本当は確かめたいという思いに駆られているのに、その話をしてしまうと、二度と二人の間に会話が成立しないかのように思えたのだ。
確かめたいという思いにウソはないが、確かめることで彼女とのこれからの会話を犠牲にすることはできなかった。
しかし、会話を犠牲にしないからといって、このままでは先に進むことはできない。こう着状態の中で、先に進むこともできず、後ろに下がることもない。まるで凍りついた空気の中を漂っているかのようで、動いているにも関わらず、まわりから見れば、時間が止まってしまったかのように見えるようで、正樹は時々、そんなイメージが頭の中に浮かんでいるのに気付いていた。
自分が受け身の体勢を感じたことは、今までにはなかった。相手のなすがままになり、自分の意志はそこには存在せず、動くこともできず、ただ反射的な反応が襲い掛かってくるだけである。