短編集62(過去作品)
絶えず将棋盤を見つめて、先々の手を考えなければならない。もちろん自分の手だけではなく、相手がどう出るかまで想像してである。相手だって素人ではない。名人戦などになると、さぞや緊張感でその場は張り詰めていることだろう。それを思うと野球の試合にも通じるものを感じる。
負けて悔しい思いが終わると、今度は先を見るようになる。
悔しい思いをしたくなければどうすればいいか。相手に勝つことである。
相手に勝つためにはどうすればいいか。相手を知って己を知ることである。
要するに負けないようにするにはどうすればいいかを考え、そしてその後で勝つための作戦を考える。
負けないようにすることは消極的かも知れないが、勝つためのステップには必要なことである。
リーグ戦などではデータが重宝されるのもそのためだ。引き分けが採用されていれば、引き分けに持ち込むことも作戦としてはありである。プロ野球などを見ていると、よく分かってくる。
テレビ中継での野球には、解説者がいる。元有名な選手で、自分の経験などから話をしてくれるので、実にためになっている。
その中で一番気になっているのは、試合の流れの話である。
イニングは九回まであるが、そこには裏表が存在する。それぞれに九回の守備と攻撃がある。そこには流れが数回お互いに訪れるという。
立ち上がりはもちろんのこと、五回前後、つまり先発投手が勝利投手を意識するイニングである。
投手の側からいうと、もう一つは百球前後のようだ。スタミナの問題である。
その中でピンチも数回訪れるだろう、その時に踏ん張れるかどうかで流れがどちらに行くか分からない。
「こういうことを想定して、普段からしっかり練習してもらいたいものですね。試合には流れがありますから」
と解説者が語る。
「そうは言っても、なかなか想定しての練習は難しいぞ。相手があることだからな」
テレビを見ながら独り言のように呟くが、ある意味野球の醍醐味はそこにあるのかも知れない。
大学に入っても野球を続けた。
ちょうど高校が地方ではあるが、有名なリーグ戦に参加している大学の付属高校だったので、大学側から誘いが来ていた。
「大学の四年間でも、一緒に野球をやろう」
先輩に当たる人がわざわざ訊ねてきてくれたのだ。
人が誘いに来るなんて今までの人生ではなかったことだ。いつも自分から門を叩いていたが、今回は誘いに乗ってみた。元々大学で野球をするつもりではいたので、誘ってくれるのは渡りに船。嬉しかった。
「そこまでおっしゃるのなら」
自分の気持ちを裏に隠し、誘いを快く受けると、
「そうか、それはありがたい。一緒に頑張ろう」
と握手をしてくれる。スカウトされて悪い気がしないわけではない。気持ちはすでに大学野球だった。
それにしても、プロ野球のドラフト会議で、指名された球団に行かない高校生を見ていると、気が知れない。自分を何様だと思っているのかと感じたのは、先輩が誘いに来てくれたのを見て感じたことだった。
相手の球団も来てほしいから指名したのであって、望まれて入団できるのであれば、それに越したことはないはずだ。
何よりも実力があるのに人数制限のために指名されなかった選手からすれば溜まったものではない。
「断るなら、スライドで別の選手が入れるようにすればいいのに」
もちろん、プロ野球とアマチュア野球のルールをあまり知らずに勝手に思っているだけだが、そこまで杓子定規になるのも癪である。プロ野球は実力の世界。そしてシビアなビジネスの世界でもある。見切りをつけるのも早いかも知れない。
それでもプロ野球にはファームという育成がある。アマチュアとの違いもあるだろう。ドラフト制度も近年、いろいろ様変わりしてきているが、なかなかまわりが納得のいくものにはなってこない。実に難しいものだ。
一般の就職にしても同じであるが、スポーツの世界の就職はまた違う。選手個々にもプライドがあり、それが難しかったりするのだろう。
各球団のスカウトに、元選手を起用するのは、選手の気持ちは元選手でないと分からないという腹積もりがあるからに違いない。
「俺の野球人生は、そんなややこしい世界に顔を突っ込むものではないので、気が楽だな」
と谷中は考えていた。
甲子園が夢であって、夢のまま終わったのと同じで、プロの世界などさらに夢また夢である。
「欲さえ持たなければ、楽しい野球生活だ」
と考えていた。大学野球への期待も次第に膨らんでくる。野球を続けながらでも、青春を大学生らしく謳歌するつもりでいるからだ。
高校時代は男子校だった。しかも野球部ということで、頭は丸刈り。本当は嫌だったが、別に逆らう気持ちもなかったので、それで続けていた。
高校時代は女の子よりも野球だった。野球が一番とまでは考えていなかったが、とにかく野球をやっていると楽しかった。甲子園出場を義務付けられるような高校ではなかったのも幸いして、精神的に楽であった。マウンドを自分の居場所と思っていたくらいである。
目立つこともなく、試合をした中にはスター選手もいた。彼らを三振に取ると、相手応援団の女の子からヤジが飛ぶ。それを、
「ざまあみろ」
と聞いていたのも、実は快感の一つであった。
お山の大将を気取っていたが、それでもその頃から少しずつチームが強くなっていった。最初の頃は点を取られても取り返してくれる打線に「おんぶに抱っこ」状態だったが、そのうちに谷中自身が相手をしっかりと抑えられるようになる。
自分に自信を持つことがどれほど大切なことかというのを知ったのはその時だった。だが、それと同時に悪いことも知ってしまった。それは自信過剰になってしまうということである。
のぼせ上がってしまったといっても過言ではない。何しろ高校野球までは、まったくの無名、地区大会でも名前が出てくることのなかった選手が大学になって急に弾けたのだから無理もないことかも知れない。
練習を怠ったりはしなかった。さらに一生懸命になって練習したのは、ライバルがいるからだ。ライバルなどそれまで意識したことがなかった。それほどの実力ではないことは分かっていたからで、有名な選手を抑えられればそれで快感という程度だった。
だが、強くなってくるとそれだけでは我慢できなくなる。
「抑えて当然と思えるほどの実力が備わってきたんだ。しっかりと頑張ってくれ」
監督から、そうゲキを飛ばされた。
「お前は、どこか闘争心に欠けているところがあった。今までの野球人生が目に見えるようだが、これからは、それをすべて払拭して、新たな野球人生を歩むっていうのも、おつなものだぞ」
とも言われた。
――何か大変なところに俺はいるんだ――
という意識に立ったことも、今までの谷中からすれば珍しいことだ。
打たれて悔しいという思いも、次第に湧いてくるようになった。リーグ戦ともなると、ライバルとは一回の大会で数度対戦がある。それだけにこちらが抑えると相手はリベンジに燃えて再度挑戦してくる。逆にこちらが打たれると、抑えるために必死になる。対戦の結果が出た瞬間から次の対戦がすでに始まっているのだ。
作品名:短編集62(過去作品) 作家名:森本晃次