短編集62(過去作品)
有頂天だった自分を今さら思い出すのも恥ずかしい。だが、一人の純粋な女の子がマスコミで脚光を浴びる。しかもまわりからはちやほやされては、舞い上がらない方がおかしいだろう。
だが、それも本当に最初の頃だった。
小さな街に生まれるかも知れない未来のオリンピック選手、期待は一気に膨らんでくる。だが、全国大会で優勝し、頂点に昇り詰めてから、彼女の人生は一変する。
学校から水泳部に予算も組まれて、彼女をバックアップする体制は整っていたにもかかわらず、一年もしないうちにアキレス腱を痛めてしまった。
「これからという時に」
まわりは最初、彼女に同情的で、
「そのうちに治る。それからでもオリンピック強化も遅くはない。まずは治してからのリハビリが大切だ」
とコーチからもハッパを掛けられる。
――そうだわ、これからだわ――
田舎に戻っての治療と足以外の身体の鍛錬に余念がなかったが、一年後のオリンピック選考委員会の決定は、彼女には冷たかった。
何しろ一度全国優勝しただけで、他の大会での実績がゼロなのだから、当然ともいえるが、
「オリンピック強化から、外された」
というコーチの言葉を最初は信じることができなかった。
「まだ大丈夫さ。この次のオリンピックがあるさ」
と話していたコーチだったが、そのコーチが、オリンピック強化委員に選ばれたことで、史子一人にかかわっているわけには行かなくなった。
次第に彼女との距離が離れていく。
「あれだけ一緒にリハビリしようと言ってくれたのに」
冷静に考えれば、コーチにも生活と名誉が掛かっている。今の仕事に必死になって当たり前だ。コーチを責めるわけにはいかない。
分かっているのに、頬をつたう涙が止まらない。歌の文句ではないが、
「涙が枯れるまで」
まさしくそんな心境だった。
実際に涙が枯れてしまうと、水泳に青春を燃やしていた時期がウソのようだった。
さすがにグレることはなかったが、今度は今まで話すこともなかった女の子たちが話しかけてくれるようになる。
「今だから正直に言うけど、今まではちやほやされているあなただったので、話しかけにくかったのよ」
と話しかけてくれた女の子たちの目が生き生きしているのが分かった。
それまで知らなかった世界を彼女たちが教えてくれる。高校生でお酒もタバコも覚えた。さすがにタバコはどうしても好きになれないので、それ以上吸うことはなかった。
男の子も紹介してくれた。遊んでいる感じの男の子が多く、そんな中の一人と初めて身体を重ね、大人になったような気になっていたのがまるで昨日のことのようである。
別にお堅いわけではなかったので、処女を捨てるくらいは何でもなかった。水泳ができなくなって、何をやっていいか分からない時期を経験しているので、ある程度なら何でもできると思い込んでいたのだ。
だが、一度身体の関係ができてしまうと、男の子がまるで子供に思えてきた。
ナンパしてくる時は言葉巧みだが、いざ身体を重ねると、相手を支配したような口調になる。そんな男にこそ隙があり、相手の懐が透けて見えるようになってくる。そんな連中にうつつを抜かすほど、史子は自分が情けない人間だとは思っていない。
史子のように苦労を知っている女には、自分へのプライドが高い。悪いことではないが、男性に対しては一途なくせに、自分に対して厳しいところがある。
それだけに寄ってくる男性にはウンザリであった。
寂しがり屋なところがあって、本音としては、
――男性がそばにいないと……
という感情が先走る。
だが、寄ってくる男性をいちいち相手にしていては、身体も精神的にも持たないのは分かっている。
それでも最初は寄ってくる男性をいちいち相手にしていた。しかし、そのうちに彼らが同じパターンの男性であることに気付く。
すべて寄ってくる男性がそうだとは限らないが、少なくとも史子が相手にした男性のほとんどは同じパターンであった。
要するに、
「その場限りの男たち」
なのだ。
「一番寂しい時にそばにいてほしい」
男性に期待しているのは、そんな気持ちだったが、口説き方のうまい男性は、言葉巧みにその場は相手を心地よくさせるテクニックを心得ている。そして心身ともに満足もさせてくれるだろう。だが、彼らの考えていることは、
「お互い様じゃないか」
ということである。
「求める者がいれば、それを叶える者がいる」
何とも悲しい関係である。
最初はそれでもよかった。男性に自分の心の隙間を埋めてもらうなど考えていなかったからで、自分へのプライドの高さが、許さなかった。
だが、それまでのパターンとまったく違う男性がいた。
彼も他の連中と同じでその場限りのつもりだったのだが、抱き合っている間に相手の感情が分かってきた。
それまで相手にした男性は本当に軽い男たちだった。後腐れがないという意味では「遊び」で割り切ることができるが、彼にはそんな割り切りは通用しない。
――どうせこの人も、私の身体の上を風のように通り抜けていくだけの人なんだわ――
と半ば溜息をつく心境でいつものごとく、一夜の感情にのめりこんでいったのだが、すべてが終わって気だるさが支配するベッドの中で、一言も何も言わなかった。
今までの男たちは、
「君は素晴らしかったよ」
という言葉を吐く。言葉が過去形なので、すでに終わった関係を無意識なのか言葉に表わしていたが、言葉にするには、相手からのせめてもの感謝の気持ちだと思っていた。
何しろ、お互い様なので、史子もその言葉に答えようと、相手の身体にしがみつく。相手も力強く抱きしめてくれるのだが、所詮はすでに終わった関係である。
だが、その人は一言も何も言わずにじっと天井を見つめている。肩をぐっと抱きしめてくれているが、何を考えているか分からない人にしがみ付くわけにはいかず、彼の胸に頭を預けていただけだった。
「何を考えているの?」
話しかけるが、彼はしばらく何も言わずに天井を眺めている。
そのうちに自分が何となく惨めになってきた。それまでには感じたことのない感情であった。
「虚しさって感じたことがあるかい?」
最初の一言がそれだった。
「今感じているわ」
「それは誰にだい?」
「私自身によ」
「それはきっとウソだ」
「えっ、ウソ?」
「ああ、君は決して自分に対して虚しさを感じる人じゃない。虚しさを感じていると思っているのは、自分が分かっていない時だ。でも、君は賢い女性だからきっと自分が分かっていないわけではない。分かっていないつもりでいるのは、自分の描いている自分と少しかけ離れたものを見ているからだろうね。それを思うと、俺は君を抱いた後に何を話していいか分からなかったんだ」
要するに、話しかける言葉がないから、黙って天井を見ていたというのだ。
「それって、私が悪いの?」
史子の言葉に彼は反応した。
「いい悪いの問題ではないんだよ。いい悪いという感情があるということは、まだ君が自分を信じられない証拠だね」
声のトーンは冷静だが、少し気持ちが高ぶっているのは、伝わってくる。何しろ身体を密着させて抱き合っているのだから当たり前である。
作品名:短編集62(過去作品) 作家名:森本晃次