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短編集62(過去作品)

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貪欲さと本能



                 貪欲さと本能

「史子」
「ああ、吾郎さん……」
 しじまを破る声が時折聞こえる。吐息が絶え間なく漏れる空間は、二人が慣れ親しんだ空間である。吐息は苦しさから漏れるものではない。入れるべきところの力は心得ていて、その中で抜く力の合間に訪れる快感が、吐息となって現れる。
 お互いの身体を貪りあっているところなど、普段の二人から想像できるものではない。
――大人の関係――
 まさしくその言葉がピッタリだ。
 それだけに盛り上がってからの二人は獣のようにお互いを貪る。そこに理性などという言葉が存在するはずもなく、本能の赴くままに動く二人を止めることは誰にもできるはずはない。
 恋人同士というにはあまりにも生々しい光景である。だが、その時の二人にそんな生々しい感情があったであろうか。
 注がれたブランデーをお互いに飲み干し、それが合図であるかのごとく、男が明かりを消しに行く。完全に明かりが消されたわけではなく、枕元にある明かりだけはかすかについている。
 浮かび上がったシルエットの中で、抱き合った。お互いに唇を塞ぎ、密着した身体をさらに隙間なく抱きしめ合おうと、乱れるかのごとく、シルエットは揺れている。ここでまず最初の吐息が漏れるのだ。
「ああ……」
 女の吐息はまだまだハスキーな声である。男は声を出すことはないが、息遣いの荒さは相当な興奮度を表わしていた。
 女には分かっているのだ。
――この人の息遣いは、興奮度を表しているんだわ――
 自分の息遣いも相手に読まれているのは分かっている。
――いいわ、私の息遣いで興奮しなさい――
 別に女王様気取りではない。だが、声を出そうとしない相手が少し癪に触るだけだ。それでも何とか声を出させようと努力するが、この段階では無理なことは分かっている。それだけ難攻不落な男であった。
 男の名前は谷中吾郎、女性は柴田史子。男の方が三つほど年下なのだが、どちらの方が最初に惚れたのかというと、史子の方だった。
 二人が身体を重ねるような関係になるまでに、半年は掛かっただろうか。もちろん、惚れてしまった史子にとってじれったかったに違いない。
 今までに史子が男性と付き合った回数は、本人からすれば、
「覚えていないわ」
 ということらしい。
 だが、史子は聡明な女性で、覚えていないなどということはないだろう。むしろ、
「どれほどの男性を愛したの?」
 と聞く方が難しいかも知れない。史子は惚れやすい方ではあるが、男が放っておくタイプでもない。何度も口説かれたことはあるはずだ。
 だが、口説かれても靡かないのが史子であった。あくまでも自分が好きになった相手にしかしっかりと靡くことはない。
「好かれたから好きになるなんていうのは、私には似合わないの」
 と嘯いているが、ウソではない。彼女を知る人は、
「彼女を落とすのは難しいよ。何しろ口説かれた人を相手にすることはほとんどないからね。そのくせにいつもそばに男性がいるんだよね。何とも不思議な女性ですよ」
 というに違いない。
 だが、それも分からないわけではない。
 彼女は気に入った男性には、すぐに自分からアプローチする。相手の男性もすぐに彼女に靡くような軟弱な男性ではないので、すぐにアツアツというわけではないが、そこが彼女の魅力になるのだろう。最後にはしっかりとカップルになっている。
「落とせない男性はいない」
 態度がそう言っているように見える。まさに豪語していると言っても過言ではないが、そこに傲慢さが見当たらないところが彼女の魅力でもある。あくまでもさりげない態度が男性の気持ちをくすぐる。
「男性にもくすぐるような母性本能があるのよ」
 と史子は考える。
 母性本能という言葉が妥当であるかは分からない。だが、相手を放っておけない性格が男性にあるのは本当で、くすぐれば男性を振り向かせることは簡単だ。
 何しろ男性にあまりない意識だからである。
 特に自分のことをクールだと思っている男性にはてきめんで、そんな男性ばかりを好きになるのだから、史子にとっても組み手しやすい。
 吾郎がそんな男性であったのも、本当に縁があったからだろう。
 吾郎という男性は、それまでに数人の女性と付き合ってきた。吾郎も、彼女のいなかった時期はそれほど長くなく、たまに気にするくらいの人であれば、
「やつのそばにはいつも女性がいる」
 と思われているに違いない。
 かといってプレイボーイの雰囲気ではない。女性に自分から声を掛けるタイプではなく、見るからに口下手で、付き合いの浅い人は、彼のそばに女性がいる光景を思い浮かべると、どこかに違和感を感じることであろう。それほどの口下手である。
 彼女のそばに女性がいるとすれば、必ずよく喋る活発な女性でないと成り立たないからである。物静かで三歩下がったような女性であれば、まったく会話など存在しない。そんな光景を誰が想像できるであろう。
 きっと彼のことだから、彼女ができても、並んで歩くなどということもなく、腕を組むなど信じられない。離れて歩いているであろう。だが、その想像は覆されている。たくさんの人の証言が、
「谷中はいつも女性と一緒に歩いている」
 というものであることから、そんな光景を見たことのない人は想像を絶することだろう。
 一緒に歩いていても、確かに腕を組んでいるわけでもなく、会話が絶えないわけではない。一緒にいることがまわりから見て一目瞭然の状態であって、そこは二人だけの世界が形成されているとしか言いようがない。二人きりの部屋で吐息を漏らしているような光景を思い浮かべることは、非常に難しい。二人を見ていると、濡れ場を想像するなどおこがましく感じられるからだ。
 吾郎という男はいつもクールで口数が少ない。
「どうしてあんなやつに女性がくっつくんだ?」
 と思われるが、クールな男性に憧れる女性もたくさんいる。だが、クールなふりをしているだけの男性のメッキはすぐに剥がれるもので、メッキが剥がれる時期も実に早い。
 下手をすると、男性が剥がれたメッキに気付くよりも、まわりの方が早く気づいてしまって、丸裸になっているのに気づかずに道を歩いているような恥ずかしさに全体が包まれることになる。
 それも一緒にいる女性の力によるものが大きく、剥がれたメッキは影も形もなくなってしまっているのが特徴であろう。
 つまり、最初の印象がどういう印象だったかということが、恥ずかしいイメージで払拭されてしまうのである。
 しじまを破る声が糸を引いて消えた時、吾郎は深い眠りについていた。
 日頃の疲れがどっと出たのだろう。肉体的な疲れと精神的な疲れ、表に見えているのは肉体的な疲れである。肉体的な疲れを見せる人に精神的な疲れは薄いだろうと思っている人もかなりいるようだが、それは思い過ごしに過ぎない。
 そのことを一番よく分かっているのが史子で、彼女は元々オリンピック強化選手だった時期があった。
 柔らかい身体がしなやかに水面を滑る。背泳ぎで高校時代は全国大会でも優勝したこともあった。
作品名:短編集62(過去作品) 作家名:森本晃次