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短編集62(過去作品)

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「いいよ。見てるだけだから」
 見ているだけの方が、本当は辛いのかも知れない。身体を動かしている方が、無意識に汗を掻くことで、身体から疲れや暑さを発散させてくれるからだ。座っているだけでは気分的に暑さを忘れようと意識しない限り無理であった。その頃はそんなことも知らなかったのだ。
 中学に入って一時期バスケットボールをしていたが、その時に身体を動かすことの利点を初めて知った。如何せん、あまり身体が強くなかった柏木は、気持ちほどついてこない身体に苛立ちを覚えながら、不本意ながらもバスケットを断念するしかなかったことは、今でも残念でならない。
「それでは参りますか」
 工場長は腰を上げ、現場を見せてくれるということで、柏木も後に従った。
「ここは、田舎ですので、時間の感覚も若干狂ってくるんですよ」
 工場長は正面を向いて歩きながら話してくれた。
「どういう意味ですか?」
「都会のように変化のある街ではありません。しかも冬になると、このあたりは一面雪に覆われるんです。雪に覆われると、なかなか晴れる日というのは少ないもので、それだけ日照時間も短いんですよね」
「ええ」
「柏木さんは体内時計というのをご存知ですか?」
「はい、何か人間の本能に近いものですよね」
「そうですね。睡眠、食欲、それらは体内時計が司っているものかも知れませんね。そして、その体内時計というのは、太陽に密接に結びついてるんですよ。時計のない時代には、日の光が大切だったでしょうね」
「それは分かりますよ」
「そして、大切なこととして、体内時計というのは、一日を二十五時間で回っているということなんですよ。人間は時計を見ることで、その瞬間にリセットするらしいですね」
「なるほど、じゃあ、時計を気にせず、太陽の光も気にせずに、ずっといると、時間の感覚も狂ってきますね」
「この村では、あまり時計を気にする人はいないんです。自分たちの体内時計を信じることで時間の感覚を植えつけているので、時として十時間も必死に働いても気にならないし、六時間くらいでその日の業務を終わることもあるんですよ。会社的には六時間でもその日のカリキュラムは終わっているので、何の問題もありません。ちゃんと八時間働いたことにしています」
「社員に優しい会社なんですね」
「彼らががんばってくれるからですね。でも、時間の感覚が違うというのは困ったものですね。私が赴任してきた時は戸惑ってばかりでした」
「じゃあ、今まで歴任の工場長の方々は大変だったでしょうね」
「ええ、三ヶ月ももたない人ばかりですね。本社に戻ってしばらくして、精神分裂症で入院した人も何人かいましたね」
 確かに同じ境遇に陥れば、柏木にもやれるかどうか自信がない。下手をすれば左遷のようなものではないか。
「矢次さんは赴任されてどれくらいなんですか?」
「私は半年経ちました。ここの工場長としては一番長いかも知れませんね」
「雪の降る季節は特に都会とも分断されているでしょうから大変でしょう?」
「大変ですね。でも、慣れてくれば、以前からずっとここにいたような気分になるから不思議ですね。静かな工場の中で棒が倒れるような大きな音がしても、気にならなくなったくらいですよ」
「ガッチャーン」
 どこからともなく乾いた音が通路内に響いた。工場の機械音がなかなか聞こえてこない通路は、よほど防音が行き届いているはずである。通路の中だけで音を吸収できるようになっているからだろう。
 しかし、この音はどこからともなく聞こえてきた音で反響も建物全体に響いているかのようだ。
 ビックリして身体が萎縮してしまい、まわりを見渡した柏木とは違い、落ち着いて何事もなかったかのように前を歩き続ける矢次工場長。まったく気にならないなんてことはないはずだ。我慢しているのだろうか。
 それにしても矢次工場長が、音は気にならないと言った瞬間に聞こえてきた轟音、偶然にしても不思議だ。しかもこれだけの音に驚かないということは、最初から音がするのを分かっていたとしか思えない。矢次工場長の後姿を穴が開くほど見つめてしまっている自分に今さらながら気がついた柏木だった。
 大きな音がまだ耳の奥に余韻として残っているが、それまで音が吸収されていると思えた通路にざわざわと何かが蠢くような音が聞こえてきた。人の話し声のようにも聞こえるが、ハッキリとは分からない。お経でも唱えているのではないかと背筋に寒さを感じていた。
 さっきまでの静かさの間、耳鳴りが聞こえていたように思えてきた。静かなところにいると、空気が圧縮されて音が吸収されるような感覚に陥ることがあったが、まさしくそれが耳鳴りだったのだ。
 矢次工場長は、決して後ろを振り返ろうとしない。さっきここに来る時に考えていた聖書の中に出てくる「ソドムの村」を思い起こさせた。
「振り返ってはならぬ」
 と自分に言い聞かせているのか、それとも振り返らないのには、さらなる理由が存在するのか柏木には分からなかった。
「工場の中は空気が薄いと言われています。意識的にこの通路や工場内の一部には空気を薄くしているところがあるんですよ」
「どうしてですか?」
「私としてはどこに根拠があるのか分からないんですが、空気が薄いところではいい発想が生まれるという逸話があるんです。ウソか本当か分かりませんけどね。ただ……」
 工場長は、歩みを少し緩めて、
「ただ……?」
 同じく歩みを緩めて視線を工場長の背中に集中した。集中して見ると、次第に焦点が狭まっていって、背中が小さく感じられた。これも錯覚だろうか。
「空気が薄いと、時間が早く進む感覚に見舞われるんですよ。これは我々にとってはありがたいことですね」
「と、おっしゃるのは?」
「先ほど話しました体内時計のお話ですよ。時計を気にしなければ一日が二十五時間という周期だと話しましたよね」
「ああ、なるほど」
 二十五時間の周期を、空気が薄いことで時間が早く進む感覚に陥れば、うまく二十四時間にまとまるのではないかと言いたいのだろう。
「そうです。そういうことなんです」
「でも、空気が薄いと苦しくなりませんか?」
「大丈夫です。仕事の途中で、新鮮な空気を与えるための施設もこの建物の中に作っていますから、いつでもリフレッシュできるんですよ。だから皆安心して空気が薄い中で、自分の能力を少しでも引き出そうと考えているんですね」
「ということは、従業員は皆理屈を分かっていて、その中で仕事をしているということですね」
「そうですね。皆の発想は個性的なものばかりですが、基本になる考え方は同じになるんです。だからこそ、優秀なものが生まれ、それが統一性のあるものになっています。会社にとっても、彼らにとっても、これほど素晴らしいことはありませんからね」
「森林浴のような効果ですか?」
「少し違いますが、自分の中にある能力を引き出すことができるという意味では、やりがいもあるでしょうし、後で訪れるリフレッシュがさらなる自己成長を約束してくれると皆思っていますね」
 矢次工場長の話を聞いていて、
――本当なのだろうか――
作品名:短編集62(過去作品) 作家名:森本晃次