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短編集62(過去作品)

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 気の弱い人だったり、超常現象に興味を持っている人なら信じ込んでしまうに違いない。それだけの迫力は十分だった。
 相手が興奮している時に、自分も一緒に興奮してしまうほど、視界を狭めるものはない。相手が興奮している時ほど自分が冷静にならなければいけないことに気付けば、神がかりなことも冷静に対応できるに違いない。
 だが、そうは思っても、心のどこかで信じている自分がいる。元々暗示に掛かりやすいのかも知れないと反省もしている。
 あれは夏だっただろうか。ある村の神社の裏にある井戸で、夜になるとすすり泣く声が聞こえるという話があった。心霊スポットを取材するために出版社で取材記者をやっているわけではないという自負があった柏木だが、ここで上司に歯向かっても得にならないことは分かっていた。出版業界も厳しい中、フリーで取材記者ができるほど、世の中は甘くない。しかも、出版社にいて、造反した記者だと分かると、誰も使ってくれないことは目に見えていた。
 半分嫌々出かけていったが、近くには温泉もあるので、せっかく出かけるのだから、温泉くらい楽しんでもいいと思い、気分的には意気揚々と出かけたのだった。
 取材は、別に大したことはなかった。想像していた通り、自然現象の悪戯で、明らかに風が通り抜ける音だった。しかしそこからが問題である。虚偽の報道にならないように、しかも読者に興味を持たせるような内容の記事を書かなければならない。欺くわけではなく、最後をぼかすことで、何とか記事に体裁をつけようというのだ。
「それが取材記者の醍醐味じゃないか」
 編集長はそう言っていつも高笑いしている。
 宿に帰りパソコンを開いて記事を書き始める。普段は吸わないタバコも、この時ばかりは吸いたくなる。
――懐かしい香りだ――
 おいしいというわけでもないのに、ついつい吸いたくなるのは、落ち着きたいという一心によるものである。
 部屋の中がタバコの煙で充満してくると、窓を開けて空気を入れ替える。これは自宅でも同じことなのだが、旅館の窓は縁側にあるので、縁側の安楽椅子に腰掛けて、表を見るのも落ち着くというものだ。
 緑に包まれた景色を見ていると、川のせせらぎが聞こえてきた。
「後で散歩してみるか」
 原稿も一段落すると、今度は喉が渇いてきた。ロビーの販売機で飲み物を買いに行くついでに散歩もしてみたくなった。
 表に出ると、川の音がさらに大きくなった。どうやら、奥に滝があるようだ。音に誘われるように歩いていくと、涼しさを通り越して寒さを感じるほどである。
 滝は思ったよりも大きくて、じっと見つめていると、吸い込まれそうになってしまう。
「危ない!」
 後ろから大きな声が聞こえた。大きな声でなければ水の勢いで声が打ち消されてしまうからだ。
「えっ」
 驚いて後ろを振り向くと、そこには一人の女性が立っていた。
「あまり滝を見つめ続けると、吸い込まれますよ」
 確かに上から落ちる勢いをそのまま動きに任せて見ていると、吸い込まれる錯覚に陥ってしまう。
「ありがとう」
 礼を言うと、彼女が話し始める。
「水は、普段は透明なんですけど、滝のように勢いがついたものは白く見えるでしょう。白いものに対して、迫っていく感覚に陥ることがあるんです。特に私はそうでした」
 おかしなことを言う女性だった。色がついているものでも、勢いがついてくると、色はすのすべてが打ち消され、白くなってしまう。七色の円盤を作って、それを勢いよくまわすと、最後は白になるという実験をしたことがあったが、同じ理屈である。確か白い色が一番残像として残るからではなかったか。科学的にも証明されていることである。
 彼女の話を聞きながら滝を見つめて、白く見えたのを確認してすぐに視線を彼女に戻すと、その場所には誰もいなかった。
 白い服を着ていたので、残像が残っていて、まだそこにいる雰囲気はあるのだが、気配は一切消えていた。忽然と消えたとはまさしくこのことだった。
 白い色に対しては、その時から不思議な感覚を持っていた。真っ暗な中で降り始めた雪も残像が残りそうなほど、鮮やかに感じる。ゆっくりゆっくりと空から降ってくるのである。
 空を見上げると、いきなり白いものが顔を打つ。漆黒の闇からいきなり現れた白い玉は、一気に大きくなり、顔に当たって、すぐに溶けてしまう。
――案外気持ちのいいものだ――
 あまり雪を感じたことはなかった。九州で育った柏木はあまり雪を見ることがなかったからである。一年に一度くらいは大雪に見舞われるが、それでも一日経てば雪は消えていることが多かった。
 雪が降る夜、出歩いたとしても、ネオンサインが煌びやかな街中でのことだった。九州に住んでいた時は都会だったので、都会に降る雪しか知らず、積もることなどなかった。
 雪景色など見たこともなかった。しんしんと降り続く雪も経験がない。ネオンサインの中で降っている雪に冷たさはあまり感じなかった。
――雪が降る時は風が吹かない――
 と思っていたのも都会で育ったからだ。
 漆黒の闇の中で雪に見舞われていると、まわりから取り残された気分に陥ってしまう。
 闇は果てしなく続き、光を受け付けない。雪の白さだけが柏木を包み、足元すら知るところではないかのように落ち着かない。
 雪はあっという間に足元に溜まり、ザックザックという音を立てている。他にまったく音もない世界で雪を踏みしめる音だけが響いている。響いているわりに、それほどまわりに反響している感じがしないのは、それだけ闇が永遠に広がっていることを示していた。
 しばらく歩いていると、森の中に入り込んでいるようだった。闇の中で蠢くものが見えている。風はほとんどないはずなのに、木々が揺れているのだ。雪の重さで揺れているのかも知れない。
 森を越えると、明かりが見えてきた。
 最初は一つの灯火だったが、次第にいくつもの光が見えてきて、かなり広い範囲で明かりがついているのが分かった。目指す工場が近づいてきた証拠である。
 時計を見ると歩き始めて三十分、明るい道であれば、見えていたかも知れないと思えるくらいの距離である。それなのに、足はガクガクしているし、明かりを見ても、あまり感動を覚えない。何となく辿り着いたという気分でしかないようだ。
 やっと近くまで来たという感覚を持つと、つい後ろを振り向きたくなる。しかし、怖い時もある。学生時代に読んだ聖書の話だった。
 別に柏木はクリスチャンというわけではない。だが、物語として聖書を読むのは楽しいものだ。いろいろなエピソードや話は人生について考えさせられるところもあれば、大袈裟に言えば未来人への警鐘ではないだろうか。
 その中に「ソドムの村」という話がある。
 悪行が蔓延っている街で、道徳という言葉などない中で、秩序は完全に破壊されていた。そんな街を憂いていた神が、街全体を滅ぼそうというお話である。その中でも善人である一家に神はソドムの街を滅ぼす旨を伝え、逃げるように促す。その際に、
「何があろうとも絶対に後ろを振り向いてはいけない」
 と告げるのだった。
 一瞬にして滅ぶ街、人々の悲鳴が聞こえる中、核爆発のような轟音が一家が逃げる後ろで繰り広げられる。
作品名:短編集62(過去作品) 作家名:森本晃次