短編集62(過去作品)
「元々、素直なやつではあったんですよ。でも父親に対してのコンプレックスはかなりのものだったと思いますよ。元々漫画家になろうなんて気はなかったみたいですからね」
「そうなんですか? 我々のインタビューには、物心ついた頃から父親の背中を見て育ったと話していましたよ」
「一種のコマーシャルなのかも知れませんけどね。でも、本当はそうだったのかも知れないですね」
私もそうだった。父親に反発している時期があったが、ある日鏡を見て、
――そっくりじゃないか――
と感じたことがあった。しかもその表情は一番嫌いな父親の表情で、父親のことを嫌いになればなるほど、鏡には自分が一番嫌な顔しか写らない。
元々自己暗示に掛かりやすい私だったが、それだけではなかった。じっと鏡を見ていると、自分の顔にいやらしい形相が浮かんできたのだ。
そんな時に思い出すのが松本の義母だった。鏡の中の自分を見ているつもりで、鏡に写っている自分の後ろに松本の義母を思い浮かべていたのだ。
身体が熱くなってきた。奥の方から何かが吹き上がってくる感覚である。自分が男なのだという自覚が芽生えてくる瞬間なのだと思った時、自分の表情がまんざらではない気がしてくる。
そう思うと、鏡に写った自分の顔が普段の自分の顔に変わっていた。かなり長い間鏡を見つめていたように感じるが、実際はあっという間である。
――まるで夢を見ているようだ――
元々、夢というのは目が覚める前の数秒で見るものらしいと聞く。あっという間であっても不思議のないことだ。
父親の背中は見ることができても、自分の背中は見ることができない。鏡に写せば見えるのだろうが、自分の目で見ているわけではないので、そこから感じられる迫力は分からない。
父親に感じたことのある背中。どれだけ偉大なものであるかを感じる時があったとしても不思議ではない。偶然なのか必然なのか、松本はそれを見つけたに違いない。それも、大人になってからのことだろう。高校時代までの松本には、絶対に感じることのできなかったものである。
父親も自分を見ている子供に気付いているはずである。子供の成長を気にしていないようで気にしている。時には、子供の成長が疎ましく思えることもあるのではないか。父親と松本との間に義母がいる限り、私の意識の中から松本の義母の面影が抜けることはなかった。
最近の橋上哲郎の漫画には、義母をイメージさせる人が多く見られる。ちょうど松本が漫画家として脚光を浴びる少し前から橋上哲郎の漫画は雰囲気が変わった。
それについて橋上哲郎は、
「私も年を取ってきた証拠というところかな?」
と話していたが、明らかに作風は若返っている。年を取ったから描ける作品ではない。
私の頭には松本の顔が浮かんだ。松本に会ってみたいと思ったのは、それが原因だったのだ。
私は最近恋愛をしてもなかなか成就しない。頭の中に、
「今日という日、本当は大切にしたいんだけど、あなたには忘れてほしいの」
という言葉がこびりついているからだろうか。
忘れなければいけない禁断の恋を思ってしまう。そんな時に思い出すのが松本の義母であり、橋上哲郎の漫画である。まるで、詩織のセリフを知っていたかのように……。
松本に連絡を取り、何とか遭う約束をしたが、彼の家に行く気にはならなかった。松本自身も最初から家に来るように誘うこともなかったし、
――自分の中でイメージしている義母が変わってしまっていたら嫌だな――
という思いが強かったのも事実だ。
私が指定した焼き鳥屋に現れた松本は、疲れた顔をしていた。
――あまり楽しそうじゃないな――
と感じたことで、最初はお互いに口も重かった。
「新人賞おめでとう」
「ありがとう。結局オヤジの道を選ぶことになったよ」
というあたりから、少しずつ松本も饒舌になっていく。だが、表情は次第に虚空を見つめるようになったことを私は見逃さなかった。
アルコールの進みも早くなってくる。
「俺の作品、オヤジが認めたんだぜ。今、オヤジが連載している作品、あれは俺が引き継いだんだ」
「ゴーストライターというやつか? どうして?」
「実は、オヤジが今描いている漫画で、主人公に近い人の年齢を上げてしまったんだ。要するに年齢が変えないことが作者と読者の間での暗黙の了解になっていたわけなんだが、オヤジはそのことが苦しくなって、我慢ができずに上げてしまったんだが、読者の中には過激な人もいるようで、脅迫状を送ってきて、実際にオヤジを狙ったやつがいる」
「警察には?」
「話していない。オヤジはすっかり自信を亡くしてしまって、作品を終わらせようとしたのを、俺が引き継いだのさ。俺には、なぜかあの作品を引き継ぐ自信があった。だが、俺なりのやり方だけどな」
「確かに作風が変わったのは分かっていた。だけど、いくら肉親とはいえ、よく人の作品の後を描くことができるな。しかも、あくまでも作者は橋上哲郎なんだろう?」
「そうだね。だけど、この作品に関しては、俺のものだって気がするんだ。もちろん、見返りはしっかりと貰っているがね」
この時の松本は、この世のものとは思えないような淫靡な表情を浮かべた。性欲の固まりを見てしまったようで、二度と見たくない表情だった。
――遭わなければよかった――
とも感じた。
「だけど、あの作品ももうすぐ終わるつもりさ」
その言葉が忘れられない。
ゴーストライターとしてやってきた松本の言葉どおり、しばらくして作品は最終回を迎えた。読者からすれば何の前置きもなく終わることになり、それこそクレームが起こりそうだったが、その心配はなかった。
松本は死んだ。どうやらこの間会った時には、もう長くないのが分かっていたらしい。病気というのは、本人の意識でどうにもならないもののようだが、最後が分かっていれば、長く生きている間にもできっこないようなことができてしまうものらしい。
そして、彼の遺作になったこの作品。ラストにやっとゴーストライターとしての松本の名前が記されている。そして漫画の中のラストのセリフ、
「今日という日、本当は大切にしたいんだけど、あなたには忘れてほしいの」
という言葉が、義母に対して向けられていることを知っているのは、橋上哲郎、そして義母本人、そして、私の三人だけであった……。
( 完 )
作品名:短編集62(過去作品) 作家名:森本晃次