短編集62(過去作品)
ストーリーとしては、いきなりドロドロしている。だが、それによって妻が逃げた理由を曖昧にしながら、あくまでも、
「妻が悪い」
と読者を巧みに誘導する。漫画を読んでいると、自然と読者は引き込まれ、主人公に自分を重ねてしまう傾向にある。したがって、自然と妻が悪い方に誘導されたとしても仕方がないことである。
さらに読み込んでいくと、主人公は再婚した。主人公には息子がいる。まるで松本のことのようだ。
松本の性格とは若干違って見えるのは、友達としての目からなのか、それとも父親としての目からなのか。しかし、客観的に作品を見ていると、
「この父にして、この子ありだな」
と思えるところもある。具体的には分からないが、どこか自分なりにこだわりを持っているところがあるのは、松本にも言えることだった。
父親としては、自分の血を引いた子供にも何か自分なりのこだわりを持っていてもらいたいと思うだろう。それが自分と同じものであれば申し分ないが、違っていてもそれを認める芸術家もいる。
だが、中には絶対に認めない人もいるようだ。作家の息子は作家、漫画家の息子は漫画家と頑固に考えている人もいる。私はそんな人を本当の芸術家だとは思っていない。
芸術家というのは、
「自分の才能は自分だけのものだ」
と思ってしかるべきであろう。そういう意味では橋上哲郎は芸術家である。どんなに偏屈であっても芸術家であるということは認めざるおえない。
漫画の中で、主人公が妻を愛しているシーンは出てこない。主人公は小説家で、まだ五十歳になっていないという設定なのに、綺麗な白髪になっていて、顎鬚も真っ白だ。いつも浴衣を着て小説を書いているような、典型的な小説家を描いている。
主人公の後妻は元々スナックでホステスをしていたという。それを主人公が見初めたのが結婚の理由ということだが、もう一つの理由として、
「子供が母親なしではかわいそうだ」
としている。
思春期の男の子、どう考えても刺激的過ぎる。主人公にも子供の頃があったはずで、思春期に艶かしい女が急に、
「母親です」
と言って現れれば、おかしな心境になるのくらいは分かりきっているのではないだろうか。漫画の中で主人公はこう言っている。
「私も息子くらいの頃に後妻がやってきた。その時、母親に対して抱いた悶々とした気持ちの鬱積が、今の自分を作っている」
確かに妄想と想像は紙一重、主人公が橋上哲郎の分身だとすれば、橋上哲郎がこの漫画を描いた時、
「これは私の経験から描いた」
と言いたかった理由も分からなくはない。
松本もこの作品を読んだのだろうか。もちろん読んでいるはずである。そしてどんな感想を持ったかというのは、私の想像では難しい。松本も両面持った性格だったからだ。
母親の前に出ると、何も言えなくなる純情な部分を持ったところと、
「俺は父親とは違うんだ」
と公言しながら、いつの間にか漫画家を目指してしまっている松本だ。どちらも自分に正直だからこその性格なのだろうが、漫画家になったとしても、父親に対しての大いなる反発があるからだろう。
橋上哲郎は、いまだに現役で、長編漫画の連載も手がけている。
「主人公は何年経っても年を取らない」
と、長編連載漫画の性のようなものを背負いながら書き続けている。
考えてみれば難しいことである。本人は確実に年を取っているはずだからである。考え方も変わってくるだろうし、それとも成長していないというのだろうか。
そんな時だった。息子の松本が、有名漫画雑誌で新人賞を受賞したという報道があった。漫画過渡期に入っている時代なので、一時期ニュースにはなるだろうが、新人賞を受賞したからと言って、すぐに連載できるわけでもなく、連載できなければ、新人賞を取ったという事実も世間は忘れてしまう。
一度、松本を訪ねてみたいと思っていた。新人賞を取ったという話を聞いたのは、実際に発表があってから二ヶ月近く経っていたので、受賞作品を見ることはできなかった。雑誌のバックナンバーを取り寄せれば見ることはできるだろうが、そこまでして見てみたいと思うものでもない。
「きっと、父親の作風とはまったく違うんだろうな」
馴染みの呑み屋で知り合った雑誌記者が、最初に松本が取った新人賞のことを教えてくれた。父親が有名な漫画家なので、息子もその道を歩んでいると単純に思っている人が多い中で、その人は、
「息子の方の作品には、どこか鬼気迫るところがあるんだ。父親よりもインパクトはあるんだが、どこか切羽詰っていて、読んでいて息苦しくなることもある。何がそこまでさせるのかって思うよ」
と言っていたが、私が知っている限りの松本に、そこまでの作品を描けるだけのものがあるとは思えなかった。
「やはり、父親に対しての反骨精神ですかね?」
「それもあるんだろうけど、それだけではないような気がするんだよ。彼の漫画はいつも誰かへのメッセージが込められているとしか思えないのは、僕だけなのかな?」
そう言って頭を傾げる記者。私もそれを聞きながら、その時はアルコールが進んだものだった。
その人は、橋上哲郎の直接の担当ではなかったが、結構漫画には精通していた。彼の話には説得力があるのだ。
「彼の子供がいたでしょう? その子の作品があまりにも父親と違うのでどんな子供なのかって一度話をしたことがあったんですよ」
松本のことだ。高校を卒業してから会っていないので、どんな風になったのか興味深いところだった。それに同じ年代の目から見るのと、実際に先輩として海千山千の人物を見てきた記者の目から見るのとではかなり違うだろう。
「どうだったんですか?」
松本と知り合いだということは一言も告げず、ただの好奇心から聞いているふりをして訊ねた。あるいは、本当に他人事のように好奇心からだけで聞いてみたいと思ったのかも知れない。
「それがね。結構エロチズムやグロテスクな作品を描くのでどんなに変わっている人物かと思えば、普通の青年なんだよ。好青年といってもいいくらいのね。それで話を聞いていると、結構、博学なんだよ。もっとも漫画を描く人は博学でないといけないと思うけど、主義主張がハッキリこちらに分かるんだよね」
「それはいいことなんですか?」
どうもそんな気がしてこない。
「いや、そうでもないんだ。ハッキリしているということは、誰にでも分かりやすい性格ということだろう? それって、芸術家としてはどうなんだろうね。事業家であれば絶対に成功するんだろうと思うけども」
確かに言えることだ。自分にとっても同じことが言える。営業の仕事をしていて相手に見抜かれてしまったり、こちらから簡単に歩み寄っては足元を見られてしまう。それでは商売にならないではないか。
少し話をしているうちに、彼と以前から友達であったことを漏らすようになってしまった。
――俺も、結構話に入り込みやすいんだよな――
誘導尋問があったわけでもないのに、結局分かってしまった。やはり営業としてもまだまだなのか、話が白熱してくると、我を忘れてしまうことが多いのだ。
作品名:短編集62(過去作品) 作家名:森本晃次