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短編集61(過去作品)

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 そのセリフにはまったくの違和感がなく、彼女の口から出てくるのを待っていたような錯覚に襲われた。
「ありがとう。助かるよ」
 カメラや取材道具の入った大きなカバンを持っていたので、見るからにこの村では珍しいのかも知れない。
 彼女の家は思っていたよりも大きなものだった。いかにも田舎の家といった雰囲気で、一部屋一部屋が大きい。夏は風通しがいいせいか、快適に過ごせそうだ。
「夏は涼しそうでいいですね」
「でも、冬は大変ですよ。結構雪も積もってしまうし、いくら暖をとっても寒さは容赦ありませんからね」
 おばあちゃんと二人暮らしというのは本当のようだ。そのおばあちゃんも最近は体調が悪いらしく、奥で寝たきりのようだ。毎日、彼女が家事全般をこなしているが、二人なので、それほど苦になることもないとのことだ。
「男手がないと大変でしょう?」
「そんなこともないですよ。男性を必要とすることもあまりありませんからね」
 最初は幼く見えた彼女だったが、落ち着いて話をしていくうちに、それほど江角と変わらないのではないかと思えてきた。
 江角は、結婚を前提として付き合っている彼女がいる。実はプロポーズもして、結婚は秒読み状態である。
 相手の女性とは三年の付き合いで、五つ年齢が下だった。
 初めて知り合ったのは、江角がフリーのライターとして、そろそろ慣れてきた頃だっただろうか。
 時々依頼してくれる出版社の近くにあるビルの喫茶店でアルバイトをしていたのだ。
 出版社には、依頼がない時も時々訪れていた。そこに、大学の時に一緒だった友達の平石がいるのもその理由である。
 お互いに仕事に関しては意識していた。平石はいずれフリーになりたいと思っているようだし、江角としても、出版社経験もなく、いきなりフリーになったのだから、不安がないわけではない。少しでも出版社の情報があれば安心もする。情報があるのとないのとでは、江角にとって雲泥の差であった。
 とはいえ、企業秘密をそう簡単に教えてくれるわけもないので、せめて、出版業界の一般的な動向程度の話になる。それでも、江角にとってはかなり精神的に違ってくるものであった。
 江角が出版社を訪れるのは、平石に会いにくるのが一番の目的だったが、それがある日を境に少し変わってきた。
 その日、平石はあいにく取材に出かけていて留守だったのだ。大方のスケジュールを頭の中に入れて江角は出版社を訪れるのだが、その日は特別な取材が入り、サポート的に平石も借り出されたとのことだ。
 平石の専門はスポーツ関係である。
 スポーツ記者といえば聞こえはいいが、本当はそれほど恰好のいいものではない。芸能関係中心の出版社なので、スポーツは二の次なのだ。それよりも芸能人とスポーツ選手の熱愛やスキャンダルなどの方がよほど記事になる。最初は真面目にスポーツ記事を書いていたが、途中から少し方向転換をした。
「本当はあまりゴシップなんて好きじゃないんだけど、気がつけば、いつの間にか目がそっちの方に行ってしまっていたさ」
 とぼやいていたが、本当であろうか。言い訳に聞こえなくもないが、本心は分からない。だが、少なくとも平石の拾ってきた記事は重宝されるようで、彼の取材でのゴシップ記事も少なくなくなった。
 平石と話をしていると、最近は愚痴を聞かされることも多い。
「最初は本心ではなかったはずなのに、売れてくると、自分の気持ちは二の次になってしまうんだよな。皆が求めてくるんだ。最初は編集長、そして会社、さらには読者。誰かが書かないといけないのなら、せめて俺の手で書いてやろうって思ったんだ」
 開き直りとも取れる表現の中には、言い知れぬジレンマが潜んでいるのが見て取れる。ジレンマはストレスに発展し、いつの間にか愚痴が多くなる。その愚痴も絶えず自分を正当化させるものであることに本人も気付き始める。悪循環になってしまうのだ。
 平石と一緒に行った喫茶店に、今付き合っている女、知恵がいた。
 知恵は赤いエプロンが似合う女の子で、近くの短大に通いながらアルバイトをしていた。
 正午から午後一時までの、いわゆる昼休みの時間はどたばたしているようだ。平石と一緒に行くのは昼休みをとうに過ぎてしまった時間帯が多く、ほとんどは午後二時過ぎであった。
 一緒に行くことも多かったが、平石が取材の帰りに寄るということもあり、ちょうど半々くらいだろうか。最初は週に一度くらいの待ち合わせだったが、そのうちに平石抜きでも来るようになった。
 そのうちというのが、初めて知恵に話しかけた日でもあったのだ。
 平石がいないことで、その日はすぐに帰るつもりだった。
 だが、その日は朝食もまともに食べていなかったので、ちょうど腹も減ってきた。実は前日に他の出版社の編集長から誘われて居酒屋で呑んだのである。
 江角はアルコールが苦手だった。呑めないわけではないが、普段から好んで呑むわけではないので、たまに呑むときついのである。
「どうだね? たまには一杯」
「はあ、ではお言葉に甘えて」
 別に帰っても誰かが待っているわけではない。誘ってくれるのを待っている時もあるくらいで、ちょうどその日はそんな気分だった。
 話は仕事の話半分、プライベート半分だった。
 編集長は人の世話を焼くのが好きなのか、
「江角君もそろそろ結婚しないといけない年じゃないかね。誰かいれば私が紹介してあげてもいいんだけどね」
 編集長は、世話焼きで有名だった。自分の知り合いの女の子と会社の若手を一緒にさせたことが数回あるのを自慢していることもあるようだ。悪いことではないのだが、どうしても知り合いからの紹介となると、尻ごみしてしまう。江角はそういうタイプだった。
「はあ、その時はよろしくお願いします」
 お茶を濁しておいたが、編集長もだいぶ出来上がってきていたので、
「そうかそうか」
 と江角の言葉を鵜呑みにしていたようだ。それはそれでありがたかった。
 アルコールのまわりはあまり早い方ではない。呑んでいる時に顔が熱くなることもきつくなることもないが、その日の夜、寝ていると頭痛が襲ってきたりする。だから、気をつけておかないと、後できついのは自分なのだ。適当に配分を考えながら呑んでいた。
 本当は呑んでいる時に適度に酔っ払って、寝る頃に酔いが覚めるのが一番いいのではないだろうか。酔いが回ってきている編集長を見ていて羨ましく感じるが、人が楽しく呑んでいるのを見るのも楽しいものだ。
 編集長と二時間ほど呑んで別れた。
「もう一軒行こう」
 と編集長から誘われたが、
「すみません。明日が早いもので」
 と丁重に断りを入れると、さらに薦めることもなく、
「今日はなかなか面白い酒を呑めたよ。また今度呑もう」
 と言って、解放してくれた。
 面白い話とはなんだったんだろう?
 女のことを話したからだろうか。今付き合っている女性がいないという話と一緒に、
「取材をしていて、そのうちに女から誘惑される気がするんですよ」
作品名:短編集61(過去作品) 作家名:森本晃次