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のっぺらぼう

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 途端に、恐怖が頭をもたげた。せっかく浅間さんと二人きりの間に失った一週間を落ち着いて考えようと思っていた矢先だっただけに、これからどうなるのだろうという不安がよみがえってきた。
 乾いた靴音はそれぞれに重みや、繊細さのようなものがあった。同じように歩いていても、音が微妙に違い、乾いた音のコントラストが奏でられている。
 廊下の広さが感覚的に分かってきた。思ったよりも広い廊下で、何よりも、天井が高いのではないかと思えてきた。ゆっくりとしたストライドの靴音は、明らかにその人が落ち着いていることを示していた。それでいて、ただ歩いているだけではなく、絶えず何かを考えている、しかも、前を向いて先だけを見ているように思った。重みのある靴音は、前を向きながら現在の足元をしっかりと見据えているようだ。それがこれからの私の運命をいかに決めていくのか、不安は募るばかりであった。
「コンコン」
 扉をたたく音がやたらとゆっくりに聞こえ、まるでこだましているかのようだった。
「はい」
 浅間さんが答えた。その声は若干身構えたように感じられ、私の方を一瞥し、扉の方に向かっていった。歩くスピードもゆっくりで、宙に浮いているかのように見えた。だが、決して軽やかとは言えない。夢遊しているかのようだった。
「ギーッ」
 蝶番でも錆びついているのか、今日の湿気を物語っているように、余韻を残す音が響いている。
 いよいよ扉が開かれる。影が扉の向こうに見えたが、実際の姿はまだまだ見えない。
――別世界に飛び出していきそうだ――
 実際に飛び出したのかも知れない。いや、元々、この世界だって、異次元のようなものに思えている。夢だってきっと異次元なのだろう。異次元の世界に飛び出したのがこの病室であるとすれば、扉が開いたその先は何なのだろう。今までいた世界であるということかも知れない。
 今までいた世界に対する怯え、それが記憶を失う前、つまり一週間前のことだったのかも知れない……。

 残りたる
  朽ちた前脚蜻蛉の
   破れ障子の大きいことかな
    
 その日の私は朝出かける前から、少し寒気がしていた。
 前の日から少し熱っぽさを感じていて、汗を掻いては何度も目を覚まし、シャツを着替えていた。風邪をひいて熱を出す時はいつも高熱が多く、微熱だと風邪からというよりも疲れからの発熱が多かったのだ。
 最近疲れていることを自覚し始めた。目が覚めてから頭痛を覚えたり、喉が痛かったりして、風邪の前兆ではないかと思っていたが、一向に高熱を出す気配がない。気だるさを感じ、何よりも、身体の節々に痛みを感じることが気になっていたのだ。
 身体中が敏感になっている。特に首筋から右耳にかけて痛みを感じる。それが頭痛の原因となっていた。
 前の日に、電話で付き合っている彼女と些細なことで喧嘩をしてしまった。
――あそこまで言わなければよかった――
 売り言葉に買い言葉、口に出してしまったものは仕方がないのだが、なるべく気を付けようと思っていたことが思わず口から出てきたのだから、後悔しても後悔しきれないというものだ。
 ただ自分から電話をして詫びを入れようとは思わない。どちらが悪かったかと言えば、むしろ、彼女が悪かったことなのだ。些細なことを気にしてしまった彼女に対し、私がそこですぐに話題を変えてようとしてしまったことが、逆に彼女に言い訳をする機会を与えてしまったようだ。
 彼女との喧嘩はいつも彼女の言い訳で始まる。自己防衛本能が強すぎるというのか、喧嘩をしても言い訳をすればすべて許されるという感覚になっているようだ。些細なことだけに、本当に子供の喧嘩のようである。私も一緒になってレベルを下げてしまっているので。こちらから折れるようなことはしない。そのために、その日一日が憂鬱になってしまうことも少なくなかった。
 学校に行くと、彼女はお休みだった。彼女とは小学生の頃から一緒だったので、めったに学校を休むことはなかった。少々の風邪でも無理して学校に出てくるくらい、ある意味頑張り屋だった。私が彼女を好きになったのは、そんな頑張り屋なところが、大きかったのかも知れない。
 私が彼女に求めるもの。それは自分に持っていないものだった。いつも風邪をひいては、すぐに学校を休んでしまう自分とは違い、タフなところも気に入っていた。ただ、話をしていると、実の子供っぽいところがある。甘えん坊なのだ。もっとも、女性から甘えられるのが嫌いではない私は、それも嬉しさの一つになっていた。
 ただ、甘えられても、自分のレベルが低いことでしょっちゅう喧嘩になっている。彼女の中では
――喧嘩をしても負けない――
 という自負があるのかも知れない。いつも勝てるわけではないと思っているのだろうが、負けないことが一番大切なことだ。容易に喧嘩に持っていき、自分の立場を少しでも優位に進めようとする気持ちが表れているのだろう。
 彼女が休んでいることで、余計に私の体調は悪くなっていった。今までにも朝起きて体調が悪かったことは何度もあったのだが、学校に着く頃には、普段と変わらなくなっていることも数多かった。学校に来てからさらに体調がひどくなるなど、今までの記憶にはないことだった。特にそばを人が通ったというだけで、その風が身体を差すように思えるのだった。
 学校が終わって家に帰る途中、今まで建っていた洋館が、取り壊されているのに気が付いた。その建物は立派な壁が、中の要塞を守っていて、無造作に生え揃った草木が建物を覆っていた。覆われた草木によって中の様子はまったく分からないほどに、朽ち果ててからかなりの年月が経っていたに違いない。放置状態のまま、何ら変化のない要塞は、いつしか目に入ってきても、気にならない存在になってしまっていたのだった。
 壁はおろか、長年のうちに培われた要塞を守る草木や、私にとってお披露目されることのない要塞もすべてがなくなり、更地になっていた。一気に片づけられた証拠に、地面にはかなりの隆起が残っている。
 ここまで完璧に取り壊されているのなら、昨日までにも気付いたはずだ。もちろん、毎日通っている。通学路を変えたりもしていない。以前は帰り道を変えることもあったは、今は毎日同じ道だ。
――最初から何もなかったかのように、忽然として消えてしまった――
 という感覚だけが残ったのだ。
 私は彼女の家に電話を掛けてみた。彼女の家族とはすでに懇意になっていて、私が電話をしても、別に怪しまれることもない。逆に娘の心配をしてくれる仲のいいクラスメイトだと思ってくれているようだ。
 その日の電話もお母さんが出たが、
「疲れているんでしょうね。風邪をこじらせたみたいで、少し吐き気もあるらしいの。せっかく心配してくれ電話まで掛けてくれたのにごめんね」
 さすがに吐き気がしている人を、電話口まで引っ張り出すのは気が引ける。治ってからゆっくり話をすればいいことだった。ただ、いくら些細なことで、いつものことだとはいえ、喧嘩の仲直りをしていないことが気になっていた。こんなことなら、最初に謝っておけばよかったと思ったのだ。
作品名:のっぺらぼう 作家名:森本晃次