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のっぺらぼう

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「時計はわざと置いていないんですよ。患者さんに余計な不安を与えないようにしようというのが一番の目的ですね」
「不安というか、時計がない方が不安に感じると思うんですが」
「このお部屋で、患者さんが一人になるということはないんですよ。四六時誰かがいます。私も昼間はここにいますが、夜はまた別の方がお世話する形になるんですよ。時間が気になれば、いる人に聞くというのがここでの決まりのようになっていますね」
 午後四時半と言われれば、なるほど、確かにそれくらいの感じがする。
 先ほど感じた日差しは西日だったのだ。
 朝日が西日に見えたことはあったが、西日を朝日と勘違いしたことなどない。小学生の頃は、休日には、いつも昼寝をしていた。うたた寝から始まって、気が付けば夢を見ている。夜の就寝よりも夕方にかけての昼寝の方が夢を見る確率からすれば多かったように思う。
「夢というのは、目が覚める寸前のちょっとした時間に見るものだ」
 という話を聞いたことがあるが、深い眠りではないと見ることができないと思っていた。だが、昼寝のちょっとした時間の方が夢に陥る確率が高いということは、昼寝の方が眠りが深いということだろうか。目が覚めると、頭痛に襲われることも少なくない。痛みを堪えるというよりも、呼吸を整えることで頭痛を収めることができる。気が付けば収まっていることがあるが、それは見た夢を思い出そうとしている時だった。夢の内容を覚えているのも夜見る夢より鮮明で、夢を見るには眠りの深さに「ツボ」のようなものがあって、眠りの深さにはあまり関係のないことなのかも知れない。特に昼寝の夢から覚める時、時計の時を刻む音が聞こえる時がある。
「これは夢なんだ」
 と気付く時であり、目覚めが近い証拠であった。眠りから覚め、現実の扉を開く時、時計の音は重要な役割を果たしているようだ。
 目が覚めてから、どれくらいの時間が経ったというのだろう。時間の経過とともに意識はしっかりしてきたが、それにつれて疑問点も次々に湧いてくる。疑問点をひとつずつ聞いていく、解決していけばいいのだろうが、それ以上に増えてくるから厄介だった。
「そろそろ先生が参ります。気を楽にしていればいいですからね。そして、余計なことを疑問に感じないこと、まだ目が覚めて少ししか経っていないのですから、無理に頭を働かせる必要はないでんです。私はもしあなたが目覚めたら、そう言えと、先生から言われていましたからね」
 目を覚ましてからの自分は、まるで生まれ変わった人間になったかのようだ。何もかもが新鮮で、不安よりも期待の方が大きいのはどうしてだろう。ひょっとすると、今は記憶を失っていて、それ以前が自分で納得のいく人生ではなかったのかも知れない。そのことだけを覚えていて、ワクワクしているのではないだろうか。
 だが、まわりのことが何も分からないと思っていた間、確かに小学生時代のことや、家族のことを覚えていた。記憶に新しいものもあれば、忘れかかっているものもある。だが、時系列にできないところが、「夢を見ているような感覚」だったのである。
 さっきから呼び起こしていく記憶の中で、本当に自分の記憶なのかと疑問に思うところがある。元々の根幹になる記憶が普通にあって、少しだけ記憶が抜けているとしたならば、疑問になど思わないかも知れない。何を疑問に感じるかと言えば、記憶の中でつながりがないのだ。
 時系列がつながっていないのでつながらないのは分かるのだが、自分の記憶として意識していると、夢で見た記憶と混在しているように思えたからだ。夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れていくものだが、中には記憶として一番強く残っているものがある。それが普通の記憶と混在してしまったことで、自分の中でつながっているつもりの意識が勝手に暴走してしまっているかのように感じるのだった。
 暴走が不安につながる。特に今ここには自分を始めとして、自分を知っている人は誰もいない。完全に浦島太郎状態だ。だが、浦島太郎は自分の知っているところに戻ってきたのだ。そして、狂ってしまった運命を受け入れるかのように玉手箱を開いた。
――物事には、必ず着地点というものがあるんだな――
 と感じたが、私のこの状態に、納得のいく着地点はあるのだろうか。
 浦島太郎にしても自分では訳が分からなかったはずだ。物語なのだから、まわりが納得すればそれでいいとことでいいのだろうか?
 本を読む時は、たいてい、自分が主人公になった気分で読むことが多いはずだ。ラストシーンが意外であればあるほど、主人公になりきった読者にはどこまで耐えられるものかと思えてならない。中学生であるはずの私が、こんな難しいことを考えていることすらおかしなことだ。
 夢にしても、本を読んでいる時にしても、主人公になりきりたいという気持ちがあるにも関わらず、客観的に見ている自分を感じる。しかも冷静に、時々瞬時に主人公と客観的な自分とが入れ替わっているきがすることがある。それも気付かないうちに入れ替わっているのだ。
 浦島太郎の気持ちが分からなくもない。途方に暮れた時、玉手箱を開こうとしたのは、衝動的ではなかったのだろうか。どうしようかと悩んでしまうと、きっと開けられなかったかも知れない。悩んでいる時間が、失ってしまった時間に匹敵するくらいで、自然に年を取っていくまで、悩み続けるのではないだろうか。それが実は恐ろしいことであって、玉手箱を開いた方が、どれだけ幸せだったのかと私は感じるのだ。おとぎ話には必ず落としどころがあり、目に見えていることだけが真実だとは限らない気がする。正反対の目線から見ても真実だったりする。
「逆も真なり」
 という言葉があるが、まさしくその通りだ。特に病室のベッドの中で、身動きが取れずにいると、いろいろ考える。歩いたり走ったりして進んでいる時は、前ばかり向いているのだということに、気付かされる。
 後ろを見ているわけではなく、反対方向から自分を見ている。目が自分の身体を離れて、違う方向から見ているのだ。それを感じるのは、時間の流れがゆっくりと感じられるからだ。時計がないので分からないが、少ししか時間が経っていないと思っていても、結構経っているのではないかと思える。
 それこそ、浦島太郎の感じている感覚ではないだろうか。一週間も眠り続けて、その間の記憶は飛んでいる、一瞬にして時間を飛び越え、目が覚めたのだ。しかも、それ以前の記憶が中途半端、今の自分もどこまで信じられるのか分からない。時間に身を委ねている瞬間だと言っても過言ではない。
 浅間さんの手が止まった。さっきまで静寂な中にもざわついたものを感じていたが、今は静寂すぎて、耳鳴りが起こっているかのようだった。遠くから乾いた音が規則正しく響いているのが聞こえた。それが靴音であることが分かると、さっきまで他に人はいると分かっていても、浅間さんとの二人だけの世界を真実として受け止めていた。
 靴音はそんな私の気持ちを違う方向に目覚めさせるものだった。
「あれっ?」
 遠くで響いていた音は、最初一人だと思っていたが、近づいてくるうちに、二人、いや三人と増えてくるかのようだった。
作品名:のっぺらぼう 作家名:森本晃次