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のっぺらぼう

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 いや、この場面では不思議なのは私の方なのであって、それでも不思議な世界に入り込んで一番戸惑っているのは自分だということが頭から離れなかった。
 彼女は、壁の汚れには気付いていないようだった。私と同じ視線を壁に向けているのに、何も表情が変化しない。見えているのに意識していないのは、灯台下暗しということわざにもあるように、一番目につきやすいものが一番気にならなかったりするものなのだろう。それが「慣れ」であったりすることで目の錯覚を呼ぶのと同じ作用ではないだろうか。
 胸のネームプレートには、「浅間」と書かれていた。
「浅間さんは、ずっと僕のそばにいてくれたんですか?」
「ええ、そうですよ」
「じゃあ、僕は何がどうしてここにいるのか分かりますよね?」
「ええ、大体のことは聞いてますよ。もうあなたがここに来て、一週間近くになろうとしていますから、目が覚めなかったので、皆さん心配していたんですよ」
 一週間目が覚めないというのは相当なものだ。左腕の感覚がマヒしてしまうくらいに四六時中の点滴だったのだろう。子供の頃から病院通いが日常茶飯事であったが、入院はしたことがなかった。それがまさか一週間も目が覚めない大きな病気というのはどういうことだろう。交通事故にでも遭ったとしか思えない。
 それにしても、この病室の汚さも気になるところだ。まわりには何もなさそうだし、病院というよりも、雰囲気は完全に療養所である。
――俺の頭がどうかしちゃったんじゃないだろうな――
 と、思っても仕方がないほどに、病室の雰囲気は異様だった。
 個室というのも、異様さに拍車をかける。どれだけの広さのある建物かも分からず、どれだけの人間がいて、どんな治療を受けているのか、目が覚めてからまだ少しだけだが、ナースと二人きり、やっと話しかけることができたくらいで、それまでの間、自分が何者であるかすら忘れてしまっていたかのようだった。
――そういえば、俺って誰なんだ?
 断片的な記憶は存在している。名前を訊ねられると、ハッキリ自分の名前が記憶から出てくるか、不安だった。思い浮かぶ名前はあるのだが、それが果たして自分の名前なのかどうか、ベッドの上では自信が持てず、自分への疑念が膨らむばかりであった。
 浅間さんは、手を休めることはなかった。絶えず何かをしていて、それがすべて必要なことであるように思える。ベッドの中で身動きも取れず、拘束された状態で見ていると、もどかしさがこみあげてきた。
 人の行動が羨ましく見えてきた。こんなことは今までになかったことだと思ったが、以前にもあったように思えたのは、小さかった頃に、母親がせわしなく狭い家の中で、休む間もなく部屋の掃除をしていた。
 あまり見ないようにしていたのは、目を合わせると、何を言われるか分からないという思いが子供心にもあった。整理整頓が苦手な私は、
「掃除しなさい」
 と言われるのが一番嫌だった。まだ、勉強を促される方がマシだったのだ。
 母親にはそういうところがあった。なるべく何も言わないようにしているところはあったのだが、一たび気になってしまうと、口を開かざる負えなくなるようだ。義務感のようなものとは違うと思うのは、口に出しながら、
「どうして私がいちいち言わなきゃいけないのよ」
 という、愚痴にも似た言葉が平気で口から洩れているからだった。
 神経質なところがあったのは、ひょっとすると、厳格な父親の影響があったからなのかも知れない。いつも監視されているプレッシャーから、自分にも子供にも厳しくなければいけないという意識が働き、余計なストレスを溜めないための苦肉の策として、子供に当たっていたのかも知れない。
――母が死んだのは、そのあたりに原因があったのかも?
 自殺と聞かされて、最初から違和感はなかった。なぜ違和感がなかったのかは、子供心には想像も及ばなかったが、中学に入った頃からは、何となく分かってきたような気がする。
 自殺する人間は、「自殺菌」という菌が原因だという話を小説で読んだことがあった。だから、自殺という言葉が本当にふさわしいのかどうか疑問である。しかも、自殺は特定の人に限られたものではない。誰がいつ、どこで自殺しても不思議ではないというのだ。何しろ、本人の意思如何を問わず、時と場所を選ばないのだから……。
 ただ、前兆はあるのかも知れない。自殺した人の多くは、
「なるほどね。あの人なら自殺しそうだ」
 といかにも自殺しそうな人が自殺している。菌には潜伏期間があるのだろう。そう考えれば、菌が原因で自殺するという考え方も、まんざら笑い事ではないかも知れない。世の中には、科学で解明できないことが数多く存在している。それを思うと自殺のメカニズムも病気のメカニズムと似ていると思う人の思考から生まれた菌という考え方も信憑性はあるというものだ。
 母が自殺したと初めて聞かされた時、信じられないという気持ちと、何となく予感があったという気持ちと半々だった。複雑な心境だったと言っても過言ではない。ただ、同じ一瞬といっても、引き伸ばして考えれば、最初に信じられないと思い、次に、何となく予感があったと感じたのだ。そう考えれば心境の流れも不思議ではない。
 自殺の原因が父親だけにあったとは思っていない。死ぬ前の母親の行動で、幾分か不審なこともあった。後から考えればおかしな感じだったというわけではなく、その時にすでに感じていたものだった。
 まず気になったのは匂いだった。部屋の中に充満する化粧品の匂い、なるべく消そうとしているのか、消臭剤を振りまいていることで、私の鼻は却って不自然さを感じたのだ。父親がいないので寂しいというのなら化粧を施すのも分かるが、父親がいないにも関わらず、部屋の中から匂いを消そうとするのは、不自然で仕方がない。
 一か月ほど化粧品の匂いを感じていたが、すでに途中から、鼻の感覚がマヒしていた。それなのに、今度は急に薬品の匂いがしてきたのである。臭さは化粧品の匂いとは少し違う。ただ、この病院で懐かしいと思った薬品の匂いとも少し違っているように思う。やは病院の匂いはこの環境が独特で、家で嗅いだ薬品の匂いがいくら近かったとはいえ、直接的に病院の匂いと結びつけることは難しいだろう。
 あれだけ子供の頃には、
「掃除をキチンとしなさい」
 と言っていて、自分も潔癖症だったはずの母親が、部屋の匂いを強烈に漂わせているのはいかにもおかしなことだ。不自然という言葉がピッタリで、そんな不自然な中で、
「自殺した」
 と言われれば、何となく分かっていたというのも不思議のないことだ。
「信じられない」
 と、感じたのは、少しニュアンスが違っているのかも知れない。母親が自殺することは分かっていたが、時期が今だということに、信じがたいものを感じたように思う。いきなり何の予備知識もなしに自殺したと聞かされた方が、しっくりくるくらいである。
 母が自殺したと聞かされてからしばらくは、母がふいに帰ってくるのではないかと思ったこともあった。自殺したのに死にきれなくて、ふいに戻ってくるという感覚、それが自殺者に対しての感覚だった。
 宗教によっては自殺を許さないものもある。死の世界から、
作品名:のっぺらぼう 作家名:森本晃次