のっぺらぼう
私は他の二つをどちらも感じたことがあった。最初に感じたのは暗所だった。小さい時に悪さをして、押し入れに閉じ込められたことがあった。父親が厳格な人だったので、まるで自分が子供の時にされていたであろうお仕置きをされているかのようだった。その時の父親の顔が印象的でもあった。
何とも言えない悲しそうな顔になっている。情けなさそうな顔だと言ってもいいだろう。まるで自分が押し入れに閉じ込められるのを感じているような表情。それを見ているだけで恐ろしさが倍増する。実際に閉じ込められると、二人分の恐怖を背負っているかのようで。二度と押し入れには入りたくないという思いでいっぱいになっていた。
それから電車に乗った時には、何があってもブラインドを下ろさないようにしていた。皆日差しが差し込む窓際ではブラインドを下ろしている。私はそれが恐ろしいのだ。ブラインドの向こうでは車窓の奥の飛び込んでは流れていく景色を影としてだけ映し出している。
――表が見えないということは、こんなに気持ち悪いことなのか――
と感じていた。
恐ろしさには、さらに光が生み出す影の気持ち悪さを知らなければ感じることのできないものがある。眩しさを目に焼き付けてしまうと、少しでも暗くなると、何も見えなくなる。慣れというのは恐ろしいもので、見えるようになるまでしばらくかかる。その間に何かあればどうしようというのだ。私は光と影が交互に織りなすコントラストの歪みが、何よりも一番恐ろしいと思っていた。
だが、閉所恐怖症はまた違う。暗所はまったく見えない。空気もこれ以上ないというくらいに濃いもので、閉所よりも暗所がどれほど怖いのかを知っていたから、今まで閉所であっても、それほど気にならなかったのであろう。だが、今は成長時期で身体がみるみるうちに大きくなる。同じ広さでも感じるものは、どんどん小さくなっていくに違いない。感覚的なものは本能と同じで、自分ではどうすることのできないものだ。それだけまわりからの影響を受けやすいのが私だということなのかも知れない。
部屋の中でクーラーが効いてくると、意識が次第にしっかりしてくるのを感じる。ボーっとしてはいたが、意識がハッキリしていないという感覚はなかったのに、さらにしっかりしてくるということは、身体の変調が精神にも少なからずの影響を与えていて、治癒の影響が出てきているのだと思うと説明もつく。どれくらいの間眠っていたのか分からないが、それ以前のことを思い出そうとしてもなかなかすぐには思い出せるものではなかったが、意識がハッキリしてきたのだから、次第に思い出していけそうな気がしていた。
「だいぶ冷えてきましたね」
その声に、私はハッとしてしまった。最初に聞いたナースの声とはまるで別人に聞こえたからだ。最初に聞いた声は、まるで寝起きのようなハスキーな声だった。それでも、心地よく感じられたのは、ナースへの思い入れが強かったからなのかも知れない。今聞いた声は鼻にかかったような声で、甘ったるさすら感じる。クーラーが効いてきて、先ほどの生暖かい空気の重要要素である、湿気を帯びた空気を吹き飛ばした中で聞く甘ったるさは、吹き飛ばした湿気を呼び戻しているかのようだった。
決して嫌なものではない。クーラーだからそれほど気にならないが、あまり乾燥しすぎるというのも私には困ったものだった。乾燥が強すぎると、身体の奥から醸し出される生気が発散されるものを失ってしまうように思うからだ。逆に湿気が多すぎると、今度は発散させた生気が行き場を失って、自分の身体のまわりで右往左往してしまい、その結果、身体に纏わりつく気持ち悪さになってしまう。
どちらがマシかと言われれば、乾燥している方がマシなのだが、湿気があまりないと、空気の薄さが感じられ、想像以上の呼吸運動を必要とされる。重苦しい息苦しさとは逆の呼吸困難が容赦なく襲ってくるのである。
――俺の身体って、こんなにもデリケートだったんだ――
過去の記憶は定かではないが、自分の本能に関する部類は、意識できていた。それは普段の平時では別に意識する必要がないもの。意識しすぎて、本当に考えなければいけないことがおろそかになってしまうことで、敢えて考えないようにしようとしていたのかも知れない。
そんな意識の元、ナースの声に反応していると、目が覚めてからクーラーが効いてくるまでの一連の時間が、一つの区切りのように思えてきた。
――母親が来ると言っていたが、どういうことだったんだろう?
その時にすぐに聞いていればよかったのだろうが、後になればなるほど聞きにくい。しかも、最初に比べて甘ったるさを感じさせる声の相手には尚更のことだった。意識だけがハッキリしてきたにも関わらず、相変わらずの記憶はない。中途半端な感覚がさらに不安を募らせる結果になっているのだ。
身体は相変わらず動かせない。ただ頭痛は少しずつ収まっていった。実際には収まったというより時が経つにしたがって、感覚がマヒしてきているのかも知れない。それでも痛みが消えていくのは、一安心であった。
――余計なことを考えると、また頭痛がしてくるかな?
せっかく収まってきた頭痛である。今さら痛みを覚えさせることもあるまい。それを思うとまわりを見るのもやめた方がいいかも知れないと思うようになっていった。
ただ、一か所、壁に気になるものがあった。最初に病室を汚いと感じた根源になったであろうシミが、へばりついていたのだ。もう少し暗ければ浮き上がって見えるのではないかと思うほどで、気持ち悪さは妖気を帯びているかのようだった。
――最初に見た時よりも縮んでいっているように思うな――
ビックリしたこともあって、大げさに見えたのだろうが、贔屓目を差し引いたとしても小さくなっていくのを感じた。明らかに縮んでいるのだ。
だが、その割に浮き上がって見えているのはなぜだろう? 最初はすぐに分からなかったが、浮き上がって見えるのは、シミのさらにふちの部分に、影のようなものがあるからだ。少しだけ濃く映っているのが、まわりが明るいためか、分かるまでに時間がかかった。そのせいもあってか、小さく見えているわりに、時間が経つにつれて気になるようになっていったのだ。
――何の形だろう?
何かの形を示しているようだが、パッと見た感じでは、アメーバのように形があってないような雰囲気である。ひょっとすると、最初に見た時と、後で見た時とでは、微妙に形が変わっていっているのかも知れない。まるで下等動物が高等動物に進化しているようで、考えられないほどの長い時間を一瞬にして飛び越えているようにすら思えてくるから不思議だった。
――それにしてもどうしてこんなものに目が行くんだろう? 俺の頭がどうかしちまったんじゃないか?
余計なことを考えていると思う自分に、半分呆れていた。
壁をじっと見つめていると、ナースもそれに気づいて、
「何を見ているんですか?」
と、その眼は好奇に満ちていた。私の視線の先が気になるのか、それとも私自身が気になるのか、とにかく不思議なナースだった。