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のっぺらぼう

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 内科でアンモニアの臭いはあまり感じなかったが、中学生になって外科に通うようになると、アンモニアの臭いを内科では感じたことがなかったくせに、外科では懐かしいと思えて仕方がなかった。もちろん、求めている懐かしさではなく、なるべくなら感じたくない懐かしさだ。
 薬品の臭いの代表がアンモニアの臭いだった。蜂に刺された時に嗅いだ記憶があったが、それ以降はなかったはずなのに、なぜ外科で懐かしさを感じるというのだろう。蜂に追いかけられる夢を見たことが何度かあったように思っているが、それが臭いと結びついて頭の中に残っているのかも知れない。
――今何時頃なんだろう?
 表からは日差しが容赦なく窓を通して差し込んでくる。それが朝日なのか西日なのかパッとは分からない。しかし、私は日差しが西日である気がして仕方がなかった。それはベッドの横にある点滴のスタンドが、やたらに影として伸びているからだ。奥の壁を伝うように伸びている影が、オレンジ色を思い起こさせ、夕焼けの影を、壁に残すのではないかと思うほどだった。
 夕日だと思った根拠として、やたらと汗を掻いていることで、西日だと思った。朝であれば、まだまだエネルギーが残っているのだが、夕方には燃焼してしまったエネルギーの矛先は身体から発せられる汗でしかない。つまりは汗が出るということは夕方だという少し乱暴な考えでもあったのだ。
 日差しはナースの顔にも当たっていた。少し顔から彼女も汗が噴き出しているように見えたのは、ファンデーションの加減なのかも知れないと思ったが、せわしなく動いている姿を見ると、やはり汗であってほしいという勝手な思いが私の頭を支配していた。
「どうしたんですか? 私の顔に何かついてます?」
 まさしく「天使の微笑み」であった。屈託のない笑顔は、私の思い過ごしではない。大人の女性でありながら、子供のようなあどけなさを残している。病院という環境が見せる贔屓目ではなく、文句なしの美しさであった。私は外科の病気であって、内科の病気ではない。思考能力がいつもと違っているわけではないのだった。
「天使の微笑み」になど今まで馴染みのない私は、すっかり彼女に参ってしまったかのようだった。軽やかな鐘の音を聞いているような涼しげな風を伴う声は、さりげなさの中に温かさを運んでくるかのようだった。ただ、どこか現実離れしたところを感じると、今度は一気に現実に引き戻された気がした。それは忘れていた痛みを思い出させるもので、特に頭の痛みは、時間が経つにつれて深まっていった。
「痛いっ」
 思わず抱えてしまった頭。ナースはそれを見ると、
「あら、大変」
 と、私の顔を覗き込む。さっきまでのあどけなさが妖艶さに変わったかと思うと、涼しげだった雰囲気が冷たさを感じさせるようになっていった。
――なぜなんだろう?
 どこか他人行儀なところが見えてくると、冷静さが見え隠れしている。確かに患者からすればナースに慌てられると不安が増幅される。ナースは常に冷静であるべきなのだろうが、この瞬間に冷静になられると、他人行儀に思えてならない。それが寂しくもあり、これが現実だと思い知らされるに至るのだった。
 妖艶な雰囲気がどこから来るのか分からなかったが。やはり最初に感じた彼女への第一印象が間違っていたのかも知れない。贔屓目には見ていないつもりであっても、実際には贔屓目に見ていたに違いない。そう思うと、自分がいかに浅はかであるかが分かってくるというものだった。
 病室は、あまり綺麗とは言えない。かなり前にテレビで見たサナトリウムの雰囲気にそっくりだ。壁もよく見ると変色しているところがあるようだし、そこは、光によってできた影ではないかと思えるものだった。先ほど感じた日差しの強さも、まんざらでもないのではないだろうか。
 一応個室になっていて。個室としては、少し広すぎるのではないだろうか。室内は蒸し暑く、表の天気からは想像できない湿気を感じる。やはり、この部屋の雰囲気は尋常ではないようである。
 私の顔を覗き込んだナースの唇が怪しく歪む。妖艶な雰囲気を感じたのは、まさしく歪んだ唇であった。
「大丈夫ですか?」
「あ、ええ、大丈夫です」
 声を発すると、最初に感じたあどけないイメージがよみがえってくる。一瞬にしてよみがえったイメージは、私に安心感を与えた。
――今の表情が本当の彼女なんだ――
 と思うことで安心感が生まれたが、先ほどの表情はまるっきりのウソというわけでもない。病室の雰囲気が、私の中で思っていた勝手な彼女のイメージを変えてしまったのかも知れない。私は考えすぎるところがあるとよく言われるが、今こそ、その真骨頂だったのだろう。
 病室の窓は開いていて、表の喧騒とした雰囲気が飛び込んできた。さっきまで閉鎖された中にいたので、開いていたことにしばらくして気が付いた。気が付かなかったのはうかつだったが、気が付かなかった方がよかったかも知れない。部屋には扇風機が回っていて、蒸し暑さの中で、心地よい風を感じていた。その風がさらに懐かしさを感じさせたのだ。
 今まで育ってきて、クーラーをつけない生活は考えたことはなかった。部屋の中を見渡すとクーラーは設置されている。わざとつけていないだけのようだ。部屋の中を見渡している私に気が付いたのか、ナースの目線も、私を追いかけているようだった。
 その目線がクーラーのところで止まった。
「ごめんなさいね。気が付くまでクーラーはつけないようにしなさいという指示だったんですよ」
「その指示というのは?」
「ドクターのですね。私にはその理由が分からなかったんですけども。気が付いて患者さんが暑いのでクーラーをつけてほしいと言えばつけてもいいということを言われておりました」
「じゃあ、つけてもらおうかな?」
「はい」
 先にクーラーのスイッチを入れ、轟音が鳴り響いている。まるで大きな部屋を冷やすための業務用のクーラーのような音に、振動までが響く。ここは何から何まで古いものが揃っているのではないかと思わせるほど、私の頭もアンティークに染まりつつあった。
 懐かしさとアンティークさは、直接に結びついていないはずなので、懐かしさを感じるというのは、感覚的なものでしかない。もし人に説明を求められると答えようがないもの。それがこの時の「懐かしさ」であった。
 ナースが窓を閉めると、部屋の空気が一変した。完全に隔離されたかのような不安感が頭をもたげたのだ。それまで感じてきた頭痛が、閉所によるものであることに初めて気づかされた。解放されていた部屋でも閉め切っていたかのような感覚があったわけだが、本当に締め切ると、さらにそれが不安感を募らせる。
 部屋の空気が動いていないことをすぐに感じた。空気に流れがないと、濃密なものに感じられ、息苦しさを感じさせられる。これが閉所の一番怖いところなのだろう。高所恐怖症、暗所恐怖症と並ぶ三大恐怖症の一つである閉所恐怖症の恐ろしさを、その時初めて知ったのだ。
作品名:のっぺらぼう 作家名:森本晃次