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のっぺらぼう

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――確か、目が覚めた時には白い包帯を巻いていたっけ――
 躊躇い傷を人に見られるのが恥かしいのか、それとも自分の目が行くのが怖いのか、きっと自分の目に触れるのが怖かったのだろう。恥かしいという気持ちが残っているのなら、自殺など考えないだろうと思うからだ。
 一度、巻いていた白い包帯を外した時に、手首が綺麗だったことがあった。戸惑い傷が目に入ってくるのを覚悟の上でのことだっただけに、拍子抜けした。その時には戸惑い傷が目に入ってくることに対して、そこまでひどい苦痛はなかった。苦痛が消えたわけではなく、免疫ができただけのことであった。
 だが、その時に感じた恐怖は傷が目に入るよりも恐ろしいものだった。自分が未遂とはいえ、自殺しようとしたことの事実を消し去ることだからである。自殺自体が、自分を葬り去ることなのに、その自殺をなかったことにするとなると、いったい自分はどうなるのだろう?
 マイナスとマイナスがそれぞれ負の効果を伴ってプラスに転じるのとは訳が違う。
「夢を見ていたのかしら?」
 確かに夢だったのだろうが、その夢の意味するところは何だったのだろう?
 打ち消すという行為が自分の中で日常茶飯事のように自然なことになってしまっていたとすれば、また自殺を繰り返すかも知れない。一度死にきれなかった人は、もう二度と自殺を繰り返さないという人もいる。一度躊躇い傷を作ってしまった人は、一度死に切れなかったことで、また死のうとしても、結果は同じことになるのではないか。私はどうして死のうとしたのか、そして、なぜ死に切れなかったのか。考えれば考えるほど、頭が痛くなってくる。
 白い包帯を手首に巻いている人を見ると、放ってはおけない気分になる。自分のことに置き換えて考えるわけではない。自分に置き換えるなど、怖くてできないことだ。
 正義感から来るものでもない。要するに目をそらすことができなくなってしまうだけなのだ。
 少年が夢の中の世界と現実の世界を混同してしまっているのが、ドクターにとっての研究材料だといった。病院に入院している現実と、自分の夢の中でもう一人の自分を見てしまった自分とである。少年の話を聞いて納得してしまった私は、ドクターには報告しなかった。報告するのが怖かったのだ。自分の記憶がよみがえるかも知れない話なのに、どうして報告をしなかったのか、考えれば分かってくるような気がしていた。
 パラレルワールドという言葉を聞いたことがあるが、一つの線の上を歩んできたと思っている人生が、本当はいくつもの分岐点が無数に広がる可能性を秘めていて、今生きている世界が偶然の上に成り立っているのではないかという考えである。少しでも枠を外れると、まったく違う世界に飛び出すという考えだ。あまりにも飛躍しすぎているが、ありえない話とも思えない。では、この世界は個人個人の偶然が作り出している世界だということになるが、それで納得できるのだろうか。
 納得できる時とできない時がある。自殺を考えた時は、パラレルワールドを感じたのかも知れない。いくつもの偶然の中から少しでも今よりもマシな世界に飛び出そうという衝動に駆られたからだろう。
「痛いっ」
 痛みを感じた時に我に返ったはずだ。偶然で成り立っている世界と誰もが必然と思っているこの世界、崩す勇気があるのかどうかであった。それは宗教の教えに近いものがある。ひょっとすると、宗教に入ろうと思ったのは、将来自殺を考えることがあるのではないかと予感しかからではないだろうか。
 実際に自殺に何度も失敗し、手首に消えない痕をつけてしまった。
「お前だけじゃないさ」
 心の中に誰かが語り掛けているように思う、声は男性で、聞き覚えがあるようなないような……。
「一人じゃないんだ」
 声が共鳴しているように聞こえた。少なくとも三人以上の声が聞こえてきた。ささやくような声もあれば訴える声もある、優しく語り掛けてくれるようにも聞こえた。きっと私にとって悪い相手ではないに違いない。ささやく声が遠くに聞こえるのは、その時が初めてではなかった。何度も聞いた記憶だけは、残っているのだ。それは、自殺に自分を誘う時に、聞いた声だったように思えてならない。絵の中から表を見た時の感覚が、なぜか私にも宿っているのだった……。

 怪奇なる
  果てに待つ身は常しえに
   誰がこの世を我に見せよか

 ドクターが一人、スタンドの電気の中で、本を読んでいる。分厚い本だが、医学書ではなさそうだ。よく見ると絵画の本を見ているらしい。それにしても、こんなに暗い部屋で見ることもないのに……。
 絵は大きな屋敷だった。西洋風の屋敷で、森に囲まれた佇まいは、一見するだけでは大きさを想像するには至らない。しかも絵の中だということを忘れさせるほどだったのだ。
 元々、森のような庭に囲まれた西洋館など、現実離れしたものだとドクターは思っている。この病院に来たこと自体、自分の人生で何かが狂ったと思ったくらいだ。
 だが、屋敷を見ていると、なぜか子供の頃を思い出す。
「デジャブだ」
 初めて見たはずのものを、前にも見たことがあるような気がすると思うことをデジャブというが、患者などには今までに何度もデジャブを経験した人に遭ったことはあったが、まさか自分がデジャブを感じるなど、想像したこともなかった。
「デジャブというのは、一種の錯覚で、自分が見たものの中に一か所だけでも似ているものがあれば、それを拡大解釈し、すべてを見たように感じてしまうことがある。それを何とか自分の中で正当化しようという意識が、実際に自分が見たものとして記憶の奥にあるものだと思わせるものなんだ」
 という説を聞いたことがあったが、すべて自分ありきの発想で、辻褄合わせと言えるのではないだろうか。すぐに違うんだと思い直したが、一瞬でもデジャブだと思ってしまったことを後悔している。なぜならキチンとした理由があって信じないと思っていることを、自分で壊してしまったのだからである。
 ドクターは元々絵が好きだった。
「絵を描いている時が一番落ち着く」
 といって、山や海などの自然が溢れる場所、公園などの落ち着ける場所。それぞれに自分の描く場所があると思っている。海などは断崖などが好きで、下から見上げた断崖を描いたりしている。
「とにかく、大きいものをいかに、決まった大きさのキャンバスに描くことができるかってことなんだよ。いや、絵に対してはもっと謙虚にならないといけないね。どうも医者というのは、患者を見ている目というのがあるので、時々謙虚さを忘れてしまう。気を付けないとな」
 と、浅間さんに話していた。
 ドクターにとって絵画とは、自分の世界を表現できる場所でもあった。元々、学生時代には小説も書いていたようで、医療を志す反面、文学青年でもあった。絵画に関しては、学生の頃まで興味もなかったのだが、卒業すると同時に興味が出てきたという。それも本当に卒業と同時だった。
作品名:のっぺらぼう 作家名:森本晃次