小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

のっぺらぼう

INDEX|28ページ/30ページ|

次のページ前のページ
 

 ドクターが私とどういう関係なのか分からない。だが、恋人だったわけではないように思う。
「私の彼氏だった人に、頼まれたのかしら?」
 彼氏という言葉に過去形しか出てこない私はハッとしてしまった。記憶を失う前の記憶はすべてが過去で、別に別れたわけではなくとも、彼氏は「過去の人」なのだ。
 それは思い出せないからだけであろうか。思い出そうとしても思い出せないのは過去を断ち切りたいという強い気持ちが自分の気持ちにロックを掛けているのかも知れない。
「ロック?」
 これは彼と同じではないか。私も彼も同じような境遇なのだ。そう思うと、私のロックもひょっとすると、自分で掛けたのかも知れないと思えてきた。
「何のために?」
 ロックを掛けたのが自分だとすると、真っ先に考えるのは何のために掛けるロックかということである。
 何か過去を葬り去りたいような衝動に駆られたのか。いや、何よりも自分にロックを掛けて記憶を失わせるような術を私が知っていて、実行できたのだとすると、恐ろしさがある。理由が何であるかという以前に、自分が何者なのかという疑問が浮かんでくる。もちろん、最初に感じた疑問であるが、名前や家族や友達と言った普通の生活に関する環境だけではなく、それ以上に点を捉えたところでの自分のことである。
 そう、「自分の正体」とでもいうべきか、自分の存在価値に対するところが一番の関心事であったのだ。
 それならば私の過去を知っている人の存在は、私にとって邪魔でしかないのではないか。記憶を失ってまで断ち切りたいと思った過去である。相当な覚悟の元に、自分の生きてきたプロセスを断ち切ったのだ。自分を葬り去るのと同じである。
「まるで自分を死んだことにしたみたいだわ」
 自分を死んだことにしてしまうということは、今まで自分のまわりにいた人を無視していることにもなる。無視してもいい相手だと判断したのか、それとも、本当に自分のまわりには誰もいなかったのか。そこまで切羽詰っていたのかと思うと、事実など知らない方が、一番いいのかも知れない。
 私の近くに私を知っている人がいて、彼に監視されているとしたらどうだろう?
 ご苦労なことだが、監視することで私が記憶を取り戻すことがないのなら、それが一番幸せなことだろう。だが、私はいつまでこの気持ちでいられるかだと思う。
 今私は自分の記憶喪失について一つの仮定を立ててみた。それに気づいてしまったのに、今までのように、記憶を失ったままでいいと思えるだろうか。そのうちに以前の自分を知りたくて我慢できなくなるかも知れない。それは禁断症状に似ていて、一度我慢ができても、周期的に襲ってくるものなのかも知れない。
 ミステリーを本で読むことはなかったが、テレビドラマなどでは、自分を死んだことにするというトリックがよく使われる。顔が分からないように潰してしまったり、遺書を残して、自殺の名所と言われる断崖絶壁から身を投げたり、樹海に入ったりなどがそうであろう。
 自殺というキーワードが使われることが多いが、何か自殺を簡単に考えてしまいそうになる自分に気持ち悪さを感じたりした。
 昔の人は自害に「美徳」を感じていたのかも知れない。戦国時代にしても、戦時中にしても、捕虜になって辱めを受けるくらいなら、死を選ぶという教育を受けていたのが線時事中だという。戦国時代は、敗北は死を意味した。敗北者が見つかっても、最後に待っているのは斬首だったからだ。
 それは未来に遺恨を残さないというのが一番の理由。自殺者は、自分がこの世に存在した事実をすべて消し去ってしまいたい心境になるのだろうか。死ぬこと自体の怖さと、この世に存在したことが消えてしまうことの悲しさで、なかなか自殺まで至らないものだという。自殺に至った人にとって自分がこの世に存在したことを消し去ることの覚悟は必須なのかも知れない。
 記憶喪失を自らが覚悟の上で受け入れるのだとすれば、自殺に匹敵するほどの覚悟がいるだろう。死の苦しみを感じないだけで、自分をすべて消し去ってしまうことに抵抗がないのだろうか。
 宗教の中には自殺を禁ずるものがある。それは神に与えられた命を自らの手で消し去ってしまうことで、神への冒涜だと言われるが、それは、記憶の自らが消してしまうのも同じことではないだろうか。記憶も自分だけのものではない。少なくとも自分が関わったすべての人のものでもある。それを勝手に消してしまうのは、まわりに対する影響も含め、神に対しての冒涜のように思えるのだ。
 どれだけの記憶喪失や自殺者の真意が、彼らに関わった人たちに分かっているのだろう。分かるはずがないような気がする。何よりも、
「どうしてなんだ?」
 という気持ちが最初に来るはずだからである。
 自殺するのは「病原菌」のせいだという人もいるが、私はそう思いたくない。ただ、学生時代には、「病原菌」説を信じたりもした。それはまわりの押しの強い意見というのもあったが、そう考えるのが一番楽だし、説明もつくと思ったからだ。
 自殺を良し悪しで判断しているわけではない。神への冒涜を一番の問題にしたいわけでもない。ただ、残された人がどう感じるかが、自殺という形で片付いてしまうと、それまでに接してきたことが報われないからだ。
 だが、楽になりたいという気持ちも分からないではない。自殺というものを簡単に片づけることが、私には嫌なだけだった。
 私は宗教団体が好きでも嫌いでもないが、宗教の話を聞かされることが多かったように思う。勧誘しやすかったのかも知れないが、学生時代に友達にどこかの道場のようなところに連れていかれた記憶があった。
 その記憶はたった今よみがえったものだ。自殺を考えなければ、思い出さなかったかも知れない。だが、記憶としては鮮明である。
「本当に学生時代だったのかな?」
 まるで昨日のことのような記憶である。
 宗教と道場、そこで私は宗教だということを最初は知らずに連れていかれ、宗教であることを教えられた時には、すでに興味を持ってしまった後だった。
 道場の記憶を思い出すまでは、自分が宗教に興味を持ったなど、信じられなかったが、思い出してしまうと、信仰する寸前まで来ていたことに気が付いた。
 どうして思い止まったかというと、止めてくれる人がいたからだ。それが誰だったのかは分からない。そして、何よりもなぜ宗教に感化されてしまったのかも覚えていない。肝心なことは依然、闇の中にあったのだ。
 止めてくれた人の顔がシルエットでは浮かんでくるが、ハッキリとは分からない。ただ自分が主婦で、夫がいる身だったのが少し思い出せた。止めてくれた人も奥さんがいて、奥さんに悪いという思いが心のどこかにはあったが、自分ではどうすることもできなかった。そんな自分を戒めるという気持ちも宗教に足を踏み入れかけた理由かも知れない。宗教に入り込むのを止めてくれたのが、不倫相手だったのではないかと思うと、実に皮肉なことだった。
 思わず私は自分の手首を見た。そこにはいくつかの筋があるではないか。赤くなったり青くなったりしているものもある。かなり前につけたものなのだろうが、躊躇い傷に違いなかった。
作品名:のっぺらぼう 作家名:森本晃次